和歌山の甲子園初戦クロニクル|智弁和歌山、六度目の正直と箕島王朝が崩れた八回

甲子園コラム

初戦・故郷の白球史|49代表地区に残る、勝った夏と負けた夏

和歌山の甲子園初戦クロニクル|智弁和歌山、六度目の正直と箕島王朝が崩れた八回

高校野球の王者は、いつ交代するのだろう。

優勝旗が渡された瞬間か。

県大会の決勝で、新しい学校が古い名門を破った瞬間か。

それとも、誰にも気づかれない初戦の一勝と一敗の間で、時代は静かに動き始めるのか。

1984年夏。

和歌山代表は箕島だった。

春夏4度の全国制覇。

尾藤公監督。

黒潮打線。

延長戦になれば、最後には箕島が笑う。

そんな神話が、まだ甲子園の土に残っていた。

取手二との初戦も、7回を終えて3-0。

箕島が、いつものように試合を支配しているように見えた。

ところが8回表。

雨を含んだ土の上で、白球が二度、箕島の手をすり抜けた。

取手二が一挙5点。

試合をひっくり返してきた箕島が、初戦の八回にひっくり返された。

それから9年。

1993年夏。

甲子園に出るたび、最初の試合で負けていた赤いユニホームが、東北高校を相手に1点を守っていた。

智弁和歌山。

9回に追いつかれた。

また勝てないのか。

また「出ると負ける」と言われるのか。

試合は延長12回へ入った。

井口が出る。

バントで送る。

松野の打球が左中間を破る。

2x-1。

智弁和歌山、甲子園初勝利。

古い王者が最後の夏に飲み込まれ、新しい王者が最初の一勝をつかむまで、わずか9年だった。

和歌山編では、箕島の王朝が揺れた八回と、智弁和歌山の王朝が始まった延長12回をたどる。

1984年、勝ち方を知り尽くした箕島が初戦で敗れた。
1993年、勝ち方を知らなかった智弁和歌山が初めて勝った。
二つの初戦の間で、和歌山高校野球の主役は静かに交代した。

和歌山の高校野球には、王者が王者を引き継ぐ歴史がある

和歌山は、参加校数だけを見れば大きな県ではない。

それでも、甲子園の優勝旗を何度も持ち帰ってきた。

戦前の和歌山中。

嶋清一の海草中。

戦後の向陽。

そして、尾藤公監督の箕島。

1990年代以降は、高嶋仁監督の智弁和歌山。

時代ごとに、全国の高校野球そのものを象徴する学校が現れた。

ただ強いだけではない。

和歌山の王者は、いつも忘れられない試合を残した。

箕島と星稜の延長18回。

智弁和歌山の強打と逆転。

勝利の数だけでなく、勝ち方そのものが物語になる。

1984年と1993年は、その二つの時代の境目にある。

1984年の箕島は、すでに王者だった。

1993年の智弁和歌山は、まだ名門ではなかった。

むしろ甲子園では、勝てない学校だった。

いまの知名度だけで過去を振り返ると、その落差を忘れてしまう。

智弁和歌山にも、最初の一勝までの長い夜があった。

勝った初戦|1993年、智弁和歌山2x-1東北

勝った初戦

大会
第75回全国高等学校野球選手権大会
回戦
1回戦
球場
阪神甲子園球場
対戦
智弁和歌山(和歌山)2x-1 東北(宮城)
試合結果
延長12回、智弁和歌山がサヨナラ勝ち
投手
有木→松野(智弁和歌山)、佐藤真(東北)

いまの名門にも「出ると負ける」と呼ばれた時代があった

いま、智弁和歌山と聞いて「甲子園で勝てない学校」を思い浮かべる人はいない。

赤い大応援団。

ジョックロック。

強打。

全国制覇。

甲子園の終盤まで勝ち残る姿が、すっかり夏の風景になった。

だが、最初からそうだったわけではない。

智弁和歌山の甲子園初出場は、1985年春。

初戦で駒大岩見沢に敗れた。

1987年夏。

1989年夏。

1991年夏。

1992年夏。

出場しても、最初の試合で敗れた。

最初の5大会は、すべて初戦敗退だった。

県大会では勝てる。

甲子園へも出られる。

だが、全国では一つ勝てない。

「智弁和歌山は出ると負ける」

そんな見方があったとしても、不思議ではなかった。

高嶋仁監督にとって、1993年夏は六度目の挑戦だった。

初めての夏に敗れた相手も、東北だった

1993年の初戦相手は、宮城の東北高校。

ここに、不思議な因縁がある。

智弁和歌山が夏の甲子園へ初めて出場したのは、1987年。

その初戦で対戦した相手も、東北だった。

結果は、東北2-1智弁和歌山。

智弁和歌山の最初の夏は、一点差で終わった。

それから6年。

再び東北と出会った。

今度のスコアも、2-1。

ただし、勝者と敗者は逆になった。

1987年、東北に1-2で敗れた。

1993年、東北に2x-1で勝った。

六年前に閉ざされた扉を、同じ相手から、逆のスコアで開け直したのである。

智弁和歌山対東北|延長12回のイニングスコア

学校名 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 安打
東北 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1 8
智弁和歌山 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1x 2 7
投手

東北:佐藤真
智弁和歌山:有木 → 松野

本塁打

東北:なし
智弁和歌山:有木

有木が、自らの本塁打で先制した

試合を最初に動かしたのは、智弁和歌山の先発・有木だった。

2回裏。

内角球に体を開かず、左翼へ運んだ。

先制本塁打。

1-0。

投手が、自らのバットで一点をつくった。

今なら智弁和歌山といえば、次々と長打を放つ強打線を思い浮かべる。

だが、この日の一勝は、豪快な大量得点から生まれたものではない。

有木の一本だけを、全員で守り続ける試合だった。

東北打線は強かった。

有木は走者を背負いながら、スライダーを低めへ集めた。

4回には東北が無死一、二塁。

だが、二塁走者がけん制でアウトになる。

智弁和歌山は、細い一本のリードを切らさなかった。

9回、あと三つのアウトで初勝利だった

1-0のまま、試合は9回へ進んだ。

智弁和歌山の甲子園初勝利まで、あと三つのアウト。

5大会連続初戦敗退を止めるまで、あと三つだった。

だが、東北が追いつく。

9回表、1-1。

八回まで守り続けた一点が消えた。

高嶋監督も、選手たちも、過去の敗戦を思い出したかもしれない。

また勝てない。

また最初の試合で終わる。

甲子園で一度も勝ったことがないチームにとって、追いつかれた一瞬は、ただの同点ではない。

過去の五敗が、一度にベンチへ戻ってくる。

それでも、智弁和歌山は崩れなかった。

有木から松野へ。

試合は延長へ入った。

延長11回、東北にも勝ち越しの機会があった

東北にも、試合を決める好機があった。

11回。

走者を出しながら、走塁の乱れが出た。

佐藤真は、智弁和歌山打線を抑え続けていた。

東北は8安打。

智弁和歌山は7安打。

四死球も、東北が6、智弁和歌山は3。

塁上に走者を置いた回数では、東北が上回っていた。

だが、試合を決める一本にはならなかった。

初勝利を待つ智弁和歌山と、逃げ切りたい東北。

夏の初戦は、十二回目の攻防へ進んだ。

12回裏、松野の二塁打が「初勝利」を連れてきた

延長12回裏。

先頭の井口が、三遊間を破った。

無死一塁。

智弁和歌山は、バントで二塁へ送った。

一死二塁。

打席は松野。

継投でマウンドを守ってきた投手が、今度はバットを握った。

打球は左中間へ伸びた。

外野手の間を破る。

二塁走者が三塁を回る。

ホームへ帰る。

2x-1。

サヨナラ勝ち。

智弁和歌山、甲子園初勝利。

大差ではなかった。

強打で圧倒したわけでもなかった。

本塁打で取った一点を守り、追いつかれても耐え、最後はバントと二塁打で勝った。

後の智弁和歌山から想像する野球とは、少し違う。

だからこそ、この一勝は忘れがたい。

智弁和歌山対東北|詳細記録

学校名 打数 安打 打点 二塁打 三塁打 本塁打 三振 四死球 犠打 盗塁 失策 残塁
東北 36 8 1 1 1 0 3 6 4 2 1 9
智弁和歌山 37 7 2 3 0 1 5 3 3 1 0 7

※詳細記録は、朝日・日刊スポーツ大会アーカイブの提供画面をもとに転記。

いまの智弁和歌山を知る人ほど、この初勝利の静けさを見てほしい。

七安打、二得点。九回に追いつかれ、十二回までかかった。王者の勝利ではない。王者になる前の学校が、過去の五敗を一つずつ押し返した勝利だった。

最初の一勝は、後の七十勝より小さく見える。だが、最初の一勝がなければ、その後の勝利は一つも生まれない。

初勝利の翌春、智弁和歌山は一気に全国の頂点へ立った

東北戦で初勝利を挙げた智弁和歌山は、次の城北戦にも5-2で勝った。

初勝利だけで終わらなかった。

3回戦では徳島商に1-2で敗れたが、甲子園で勝つ感覚をつかんだ。

そして翌1994年春。

智弁和歌山は、センバツへ出場した。

横浜を破る。

宇和島東との接戦を制する。

準決勝ではPL学園に5-4。

決勝の相手は常総学院だった。

智弁和歌山は7-5で勝利。

甲子園初勝利から、わずか七か月ほどで全国制覇を成し遂げた。

1993年夏の東北戦は、一勝という数字以上の意味を持っている。

智弁和歌山が、甲子園に「出る学校」から、甲子園で「勝つ学校」へ変わった試合だった。

1997年夏。

2000年夏。

2021年夏。

後に全国制覇を重ねる名門の最初の一歩は、延長12回の二塁打だった。

負けた初戦|1984年、箕島3-5取手二

負けた初戦

大会
第66回全国高等学校野球選手権大会
回戦
2回戦・両校にとっての大会初戦
球場
阪神甲子園球場
対戦
取手二(茨城)5-3 箕島(和歌山)
試合結果
取手二が8回に一挙5点を奪って逆転勝ち
投手
島田→杉本(箕島)、柏葉→石田(取手二)

箕島は、勝負の終盤で強くなる学校だった

箕島高校の名を聞くと、僕はまず「しぶとい」という言葉を思い浮かべる。

打ち勝つだけではない。

守り、送り、走り、相手の隙を待つ。

終盤になればなるほど、箕島の野球は濃くなった。

1970年春、全国制覇。

1977年春、二度目の優勝。

1979年には、春夏連覇。

星稜との延長18回を含め、負けそうな試合を何度も生き返らせた。

尾藤公監督の笑顔には、不思議な余裕があった。

一点差でも慌てない。

延長に入っても、最後には何とかしてしまう。

箕島は、勝利の方法を知っている学校だった。

1984年の箕島は「ストップ・ザ・PL」の一番手に見えた

1984年夏、前年優勝のPL学園には、2年生となった桑田真澄と清原和博がいた。

優勝候補の中心は、やはりPLだった。

そのPLを止める学校はどこか。

僕の記憶では、箕島は有力な一番手に挙げられていた。

好投手・島田。

体格のある打線。

守備と走塁。

往年の小柄で機動力に富んだ箕島とは少し違い、歴代でも屈指の大型チームという印象があった。

「箕島史上最強ではないか」

そんな声が聞こえてくるほど、戦力は整っていた。

そして何より、尾藤監督がいた。

甲子園で勝つ術を知り尽くした監督である。

初戦の相手は取手二。

木内幸男監督が率いる、自由で勢いのあるチームだった。

僕らが「やんちゃ軍団」と呼びたくなるような、枠に収まらない野球をしていた。

取手二対箕島|3-5のイニングスコア

学校名 1 2 3 4 5 6 7 8 9 安打
取手二 0 0 0 0 0 0 0 5 0 5 8
箕島 1 1 0 0 0 0 1 0 0 3 8
投手

取手二:柏葉 → 石田
箕島:島田 → 杉本

本塁打

取手二:なし
箕島:なし

初回、2回、7回――箕島が理想的に点を重ねた

箕島は初回に1点を先制した。

2回にも1点。

取手二の攻撃を島田が抑える。

試合は、完全に箕島の形だった。

派手に大量点を奪わなくてもいい。

先に取り、守り、相手に焦りを生ませる。

7回裏には、さらに1点を加えた。

3-0。

残りは二回。

箕島にとって、三点差は大きく見えた。

しかも取手二は、七回まで無得点。

甲子園を知り尽くした箕島が、そのまま試合を閉じる。

誰もが、そう思いかけた。

8回表、雨と二つの悪送球

8回表。

取手二の先頭打者が放った二塁ゴロを、箕島の二塁手が悪送球した。

走者は二塁へ。

続く塙が、左中間へ三塁打。

3-1。

小菅が四球。

次の遊撃ゴロで、箕島は併殺を狙った。

だが、二塁への送球がまたそれた。

二つ目の悪送球。

取手二が勢いづいた。

佐々木が三遊間を破る。

同点。

箕島は島田から杉本へ継投した。

それでも、流れは止まらない。

下田の三塁打。

犠牲フライ。

取手二は、この回だけで5点を奪った。

3-0が、3-5へ変わった。

当時の記録には、この回に雨が降り始め、内野手の送球にも難しい条件が重なったと残る。

だが、同じ雨の中で、取手二は箕島のミスを一つも見逃さなかった。

ひっくり返す学校が、ひっくり返された

箕島は、何度も終わりかけた試合を生き返らせてきた。

1979年の星稜戦。

1982年春の明徳戦。

普通なら終わっている試合を、最後まで諦めず、ひっくり返す。

それが箕島だった。

ところが、この日は違った。

七回まで3-0。

勝利を手にしていたのは箕島だった。

八回の一瞬で、取手二が試合を奪った。

試合をひっくり返してきた学校が、最初の試合でひっくり返された。

9回裏。

箕島は得点できなかった。

取手二5-3箕島。

優勝候補の夏は、初戦で終わった。

取手二対箕島|詳細記録

学校名 打数 安打 打点 二塁打 三塁打 本塁打 三振 四死球 犠打 盗塁 失策 残塁
取手二 32 8 5 2 2 0 6 3 1 2 2 4
箕島 33 8 2 4 0 0 3 5 1 0 2 9

※詳細記録は、朝日・日刊スポーツ大会アーカイブの提供画面をもとに転記。箕島の得点と打点が一致しないのは、失策など打点が記録されない形で得点したためと考えられる。

取手二も箕島も8安打だった。失策も両校2つ。それでも、残塁は取手二4、箕島9。

箕島は序盤に走者を出しながら、試合を決め切れなかった。取手二は八回に訪れた一度の流れを、五点へ変えた。

強い学校が負けるとき、必ずしも力負けするわけではない。勝負を決める一回を、相手に渡してしまうことがある。

箕島を破った取手二は、そのまま全国制覇へ駆け上がった

取手二の快進撃は、箕島戦だけでは終わらなかった。

次の福岡大大濠戦に8-1。

鹿児島商工に7-5。

準決勝では鎮西に18-6。

そして決勝。

相手は、桑田真澄と清原和博を擁するPL学園だった。

試合は延長10回へ入る。

取手二が8-4で勝利。

茨城県勢初の全国制覇を成し遂げた。

箕島が七回まで3-0で封じていた相手が、その夏の頂点に立った。

箕島は弱い相手に取りこぼしたわけではない。

その夏、誰よりも勢いを持った王者に、最初に飲み込まれた。

木内幸男監督の取手二は、甲子園の常識を少し外れた場所から野球をしているように見えた。

選手はのびのびと振る。

ミスを恐れず走る。

相手が名門でも、校名に怯えない。

箕島を破ったことで、取手二は自分たちの野球が全国でも通じると確信したのかもしれない。

取手二戦は、尾藤公監督が夏の甲子園で指揮した最後の試合になった

ここは、正確に書き分けておきたい。

1984年の取手二戦は、尾藤公監督の引退試合ではない。

尾藤監督は、その後も1995年まで箕島を率いた。

1991年春にも甲子園へ出場している。

だが、夏の甲子園には戻れなかった。

結果として、取手二戦が、尾藤公監督が夏の甲子園で指揮した最後の試合になった。

1979年。

春夏連覇を達成し、星稜と延長18回を戦った。

1980年にも夏の甲子園へ出場した。

1984年は、大型チームを率いて頂点を狙った。

その最後の夏が、七回まで3点をリードしながら、八回の5失点で終わった。

箕島らしくない敗戦だったからこそ、時代の終わりを感じさせる。

箕島から智弁和歌山へ|和歌山の王者が交代した九年間

1984年・箕島

すでに春夏4度の全国制覇を誇る王者。

取手二に7回まで3-0とリードしながら、8回に二つの失策をきっかけとして一挙5点を奪われた。

取手二戦は、尾藤公監督が夏の甲子園で指揮した最後の試合になった。

1993年・智弁和歌山

甲子園出場5大会連続で初戦敗退していた新興校。

1987年夏に1-2で敗れた東北と再戦し、延長12回に2x-1で甲子園初勝利を挙げた。

翌1994年春には、常総学院を破って初の全国制覇を成し遂げた。

箕島が初戦で敗れた1984年。

智弁和歌山が初勝利を挙げた1993年。

その間は9年しかない。

1984年の時点で、智弁和歌山には甲子園出場歴さえなかった。

1993年の時点で、箕島は夏の甲子園から9年間遠ざかっていた。

古い王者が去り、新しい王者が現れる。

だが、その交代は、県大会の一試合だけで起きたわけではない。

箕島が甲子園へ戻れない夏を重ねる。

智弁和歌山が甲子園へ出ては負ける。

二つの学校が、それぞれ違う苦しみを抱えていた。

そして1993年。

智弁和歌山が最初の一勝を挙げたことで、時代の針が大きく動いた。

翌春の全国制覇。

1997年夏の優勝。

2000年夏の優勝。

和歌山の高校野球は、箕島の時代から智弁和歌山の時代へ移っていった。

箕島は、勝つことが当たり前になった末に初戦で敗れた。
智弁和歌山は、負けることが続いた末に初めて勝った。
王者の交代は、栄光ではなく、二つの初戦から始まっていた。

もう一つの初戦|2013年、箕島2-4日川

第95回全国高等学校野球選手権大会・1回戦

日川 4-2 箕島

29年ぶりの夏・尾藤公の長男、尾藤強監督が率いた復活の甲子園

1984年の取手二戦から29年。

箕島は、2013年夏に甲子園へ戻った。

監督は尾藤強。

名将・尾藤公の長男だった。

父が夏の甲子園で最後に指揮を執った1984年。

息子の強も、箕島の選手としてベンチに入っていた。

その息子が監督となり、父のユニホームを再び甲子園へ連れてきた。

相手は山梨の日川。

箕島は3本の本塁打を浴びた。

9回裏、二死二塁。

最後の打球は、同点本塁打を思わせる大きな右翼への飛球になった。

だが、外野手のグラブへ収まった。

日川4-2箕島。

29年ぶりの夏は、初戦で終わった。

父の最後の夏も初戦。

息子が連れ戻した夏も初戦。

それでも、2013年の出場には勝敗を越えた重みがある。

箕島の名が、再び夏の甲子園に呼ばれた。

尾藤という名が、もう一度ベンチにあった。

2026年7月現在、箕島は2013年を最後に夏の甲子園から遠ざかっている。

だからこそ、次に甲子園へ戻る日を、オールドファンは待ち続けている。

和歌山編が教える「初戦」の残酷さと希望

甲子園の初戦は、過去の実績を持ち込ませてくれない。

春夏4度の全国制覇も、試合開始のサイレンとともに一度消える。

5大会連続初戦敗退という過去も、一球で書き換えられる。

箕島には、勝利の歴史があった。

智弁和歌山には、敗戦の歴史しかなかった。

だが、1984年は箕島が敗れ、1993年は智弁和歌山が勝った。

初戦は、学校の格付けを知らない。

名将の勝利数も知らない。

未来に何度優勝するかも知らない。

その日の九回、あるいは十二回で、相手より一点多く取った学校だけを次へ進ませる。

箕島の敗北は、名門の価値を下げない。

智弁和歌山の初勝利は、それ以前の五敗を無駄にしない。

負け続けた記憶があったから、一勝は大きかった。

勝ち続けた記憶があったから、一敗は深かった。

和歌山の二つの王者は、初戦の両側から、勝つことの難しさを教えてくれる。

まとめ|箕島の最後の夏から、智弁和歌山の最初の一勝へ

1984年夏、箕島は取手二との初戦で、初回と2回に1点ずつを奪った。

7回にも1点を加え、3-0。

勝利まで、あと二回だった。

しかし8回表。

二つの悪送球をきっかけに、取手二が一挙5点。

箕島は3-5で敗れた。

両校とも8安打。

失策も2つずつ。

だが、取手二は八回の一度の流れを、五点へ変えた。

取手二はその後、決勝で桑田・清原のPL学園を延長10回の末に8-4で破り、茨城県勢初の全国制覇を成し遂げた。

取手二戦は、尾藤公監督が夏の甲子園で指揮した最後の試合になった。

それから9年後。

1993年夏、智弁和歌山は東北と対戦した。

智弁和歌山は、甲子園出場5大会連続初戦敗退中だった。

しかも、夏の初出場だった1987年に1-2で敗れた相手も東北だった。

2回、有木が先制本塁打。

9回、東北が同点。

延長12回、井口の安打と犠打で一死二塁。

松野が左中間二塁打を放った。

2x-1。

智弁和歌山、甲子園初勝利。

翌1994年春、智弁和歌山は全国制覇を成し遂げた。

箕島が最後の夏に敗れた初戦。

智弁和歌山が最初の一勝を挙げた初戦。

二つの試合の間で、和歌山高校野球の王者は交代していった。

だが、箕島の栄光が消えたわけではない。

智弁和歌山の五敗が消えたわけでもない。

勝利も敗北も、その学校が名門になるための歴史として残る。

3-0から5点を奪われた、雨の八回。

五度の敗戦を越えた、延長12回の左中間二塁打。

和歌山の王者が入れ替わったあの夏も、白球だけは、同じ甲子園の土を転がっていた。

あの夏の白球は、今も心を走り続けている。

和歌山の甲子園初戦史に関するFAQ

Q1.なぜ「勝った初戦」に1993年の智弁和歌山対東北を選んだのか?
智弁和歌山が甲子園出場5大会連続初戦敗退を止め、六度目の出場で学校史上初の甲子園勝利を挙げた試合だからだ。翌1994年春の全国制覇へつながる、名門誕生の出発点でもある。
Q2.智弁和歌山は東北戦で、どのようにサヨナラ勝ちしたのか?
2回に有木の本塁打で先制し、9回に東北へ追いつかれた。延長12回裏、先頭の井口が安打で出塁し、犠打で二進。松野が左中間へ二塁打を放ち、2-1でサヨナラ勝ちした。
Q3.智弁和歌山は以前にも東北と対戦していたのか?
1987年夏、智弁和歌山が夏の甲子園へ初出場した際の初戦相手も東北だった。その試合は東北が2-1で勝利。6年後の1993年には、智弁和歌山が同じ2-1で勝ち、雪辱と甲子園初勝利を同時に果たした。
Q4.箕島は取手二戦で、なぜ3点差を逆転されたのか?
箕島は7回を終えて3-0とリードしていたが、8回表に二つの悪送球が重なった。取手二は三塁打や適時打、犠牲フライを集中させて一挙5点を奪い、5-3で逆転勝ちした。
Q5.1984年は尾藤公監督の最後の大会だったのか?
監督としての最後の大会ではない。尾藤公監督は1995年まで箕島を率い、1991年春にも甲子園へ出場した。ただし、1984年の取手二戦が、尾藤監督が夏の甲子園で指揮した最後の試合となった。

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使用した主な情報ソース

記録と表記について:
本文中の試合スコア、イニング、投手、本塁打および詳細記録は、朝日・日刊スポーツ高校野球大会アーカイブ、和歌山県公式資料、和歌山県高等学校野球連盟、報道記事、ならびに提供された大会記録画面を照合して作成した。「1984年の箕島は歴代屈指の大型チーム」「ストップ・ザ・PLの一番手」という評価は、筆者の当時の観戦記憶に基づく回想として記述している。

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