広島の甲子園初戦クロニクル|山陽、九回二死からの奇跡と広島商を目覚めさせた一敗

中国

初戦・故郷の白球史|49代表地区に残る、勝った夏と負けた夏

広島の甲子園初戦クロニクル|山陽、九回二死からの奇跡と広島商を目覚めさせた一敗

広島の野球は、派手な奇跡を待つ野球ではなかった。

一つ送る。

一つ進める。

一つのアウトを確実に取る。

白球が土の上を転がる間に、次のプレーへ備える。

広島商、広陵、呉港、盈進、尾道商、崇徳。

学校は違っても、広島県の高校野球には、試合を雑にしないという一本の筋が通っていた。

だから、1990年夏の山陽は異質だった。

春夏を通じて初めての甲子園。

最初の相手は、栃木の葛生。

9回裏。

山陽は1-4。

二死。

走者なし。

初出場校の夏は、あと一つのアウトで終わるはずだった。

そこから、左前安打。

四球。

左前安打。

内野安打。

また左前安打。

そして、右前打。

打球は、きれいな設計図の上を進んだのではない。

選手たちが一人ずつ、終わりかけた夏を手繰り寄せた。

山陽5x-4葛生。

9回二死走者なしから、4点を奪って逆転サヨナラ。

「野球は九回二死から」という言葉が、本当に起きてしまった夏だった。

その9年前。

1981年夏。

甲子園で何度も優勝旗を掲げてきた広島商が、新潟の新発田農と向き合った。

8回まで0-0。

9回表、新発田農が先制。

その裏、広島商が追いついた。

甲子園の空気は、ここから広商が勝つのだと思った。

だが延長10回。

新発田農が2点を奪う。

新発田農3-1広島商。

勝ち方を知り尽くしていた名門が、初戦で姿を消した。

一方は、何も持たない初出場校が始めた歴史。

もう一方は、すべてを持っていた古豪が立て直した歴史。

広島編では、山陽の「始まりの一勝」と、広島商の「目覚めの一敗」をたどっていく。

何も持たなかった山陽は、一勝から歴史を始めた。
すべてを持っていた広島商は、一敗から歴史を立て直した。
広島の初戦史には、勝利より大きな勝利と、敗北より深い敗北がある。

広島野球は、白球を遠くへ飛ばす前に、相手の一歩を止めた

広島県の高校野球を語るとき、避けて通れない学校がある。

広島商。

大正、昭和、平成。

時代を越えて、夏の甲子園で6度の全国制覇を果たした。

広島商の野球は、巨大な打者一人に試合を預けるものではなかった。

走者を出す。

送りバントで進める。

相手守備の一瞬の迷いを突く。

投手が低めへ投げる。

内野手が前へ出る。

外野手が次の塁を与えない。

一つ一つのプレーは小さく見える。

しかし、九回を終えたとき、その小さな差が一点になる。

それが、僕らの記憶にある「広商野球」だった。

広島商だけではない。

県内には広陵、呉港、崇徳、尾道商、盈進、広島工など、それぞれの時代を背負った学校がある。

投手を育てる。

守備を鍛える。

接戦を勝ち切る。

広島代表の夏の初戦には、派手な逆転よりも、手堅く試合を閉じる記憶が多い。

だからこそ、山陽の逆転劇は強烈だった。

広島の定石から、最も遠い場所で生まれた一勝だった。

勝った初戦|1990年、山陽5x-4葛生

勝った初戦

大会
第72回全国高等学校野球選手権大会
回戦
2回戦・両校にとっての大会初戦
球場
阪神甲子園球場
対戦
山陽(広島)5x-4 葛生(栃木)
試合結果
山陽が9回裏二死走者なし、3点差から逆転サヨナラ勝ち
投手
川岡(山陽)、早川(葛生)
特記事項
山陽は春夏を通じて甲子園初出場

初出場校の最初の試合は、終わりかけていた

1990年夏、山陽は初めて甲子園へやってきた。

広島代表といえば、広島商や広陵を思い浮かべるファンが多かった時代である。

山陽の名は、全国ではまだ広く知られていなかった。

甲子園へ出場したこともない。

全国大会で勝った歴史もない。

まっさらな校史を抱え、山陽は葛生との初戦へ入った。

先発は川岡。

相手の葛生も、甲子園の常連というわけではなかった。

互いに最初の一勝を求める試合だった。

試合は4回に動いた。

葛生が1点。

その裏、山陽も1点。

1-1。

だが6回、葛生が1点を勝ち越した。

8回には、さらに2点。

葛生4-1山陽。

山陽は11安打を許しながら、何とか試合をつないでいた。

しかし8回を終えて三点差。

残された攻撃は、あと一度だけだった。

山陽対葛生|5-4のイニングスコア

学校名 1 2 3 4 5 6 7 8 9 安打
葛生 0 0 0 1 0 1 0 2 0 4 11
山陽 0 0 0 1 0 0 0 0 4x 5 8
投手

葛生:早川
山陽:川岡

本塁打

葛生:なし
山陽:なし

九回二死、走者なし――奇跡はまだ始まっていなかった

9回裏。

山陽の攻撃。

得点は1。

必要な点は、少なくとも3。

まず二人が倒れた。

二死。

走者なし。

あと一人。

その打者が倒れれば、山陽の初めての甲子園は終わる。

初出場。

初戦敗退。

それは珍しい結末ではない。

全国には、甲子園へ一度だけ出場し、一勝を挙げられないまま帰った学校がいくつもある。

山陽も、その一校になるはずだった。

打席は伊藤。

伊藤が左前へ運んだ。

一塁へ到達する。

二死一塁。

だが、まだ三点差。

安打が一本出ただけである。

奇跡と呼ぶには、あまりにも遠かった。

四球、左前打――満塁になって、甲子園が異変に気づいた

続く川岡が四球を選んだ。

二死一、二塁。

ここで鍵本。

左前安打。

満塁。

二死満塁。

まだ4-1。

本塁打が出れば逆転。

だが、二死である。

葛生に必要なのは、あと一つのアウトだけだった。

打席は新谷。

打球は三塁方向へ転がった。

強烈な打球ではなかった。

三塁手が前へ出る。

だが、白球が土の上で不規則に跳ねた。

内野安打。

三塁走者が生還する。

4-2。

なお二死満塁。

この瞬間、甲子園の空気が変わった。

奇跡は、最初の安打では始まらなかった。

四球でもなかった。

満塁になっても、まだ遠かった。

イレギュラーした打球が一塁へ届かなかったとき、球場全体が初めて「何か」を感じた。

網本の左前打――一点差

打席は網本。

網本が左前へ弾き返した。

三塁走者が帰る。

4-3。

一点差。

まだ二死。

まだ葛生がリードしている。

だが、追う側と追われる側の立場は、数字以上に入れ替わっていた。

甲子園の歓声が、山陽の背中を押す。

葛生には、あと一つだったアウトが急に遠くなる。

二死満塁。

一打同点。

長打ならサヨナラ。

打席は香山。

香山の右前打――同点走者とサヨナラ走者が続けて帰った

香山の打球は、右前へ抜けた。

三塁走者がホームへ入る。

4-4。

同点。

二塁走者も三塁を回った。

ライトから白球が返ってくる。

走者がホームへ滑り込む。

セーフ。

5x-4。

逆転サヨナラ。

9回裏二死走者なしから、4点。

伊藤の安打から、試合終了まで、アウトは一つも増えなかった。

初出場の山陽が、最初の甲子園で最初の一勝をつかんだ。

勝った山陽の選手たちは、歓喜の輪をつくった。

敗れた葛生の選手たちは、何が起きたのかを受け止め切れないようにグラウンドへ立っていた。

九回二死から始まる物語は多い。

だが、本当に九回二死、走者なしから三点差をひっくり返す試合は、そう何度も起こらない。

山陽対葛生|詳細記録

学校名 打数 安打 打点 二塁打 三塁打 本塁打 三振 四死球 犠打 盗塁 失策 残塁
葛生 35 11 4 3 0 0 2 1 3 4 2 8
山陽 34 8 4 0 0 0 4 5 0 0 2 8

※詳細記録は、朝日・日刊スポーツ大会アーカイブの提供画面をもとに転記。

数字だけを見れば、葛生の方がよく打っている。

安打は葛生11、山陽8。二塁打は葛生3、山陽0。盗塁も葛生4、山陽0だった。

山陽は八回まで、わずか4安打ほどに抑えられていた計算になる。だが、最後の二死から必要な安打と四球を一度に集めた。

野球は、九回までの総量だけで決まらない。必要な瞬間に、必要な一本を続けられるか。その一点に、この試合のすべてがあった。

山陽は奇跡だけで終わらず、初出場でベスト4まで進んだ

劇的な逆転勝ちは、その次の試合であっさり敗れれば、一夜の奇跡として終わる。

だが、1990年の山陽は違った。

3回戦の相手は、和歌山の星林。

山陽は6-1で勝った。

葛生戦とは異なり、今度は五点差。

奇跡ではなく、力で勝ち切った。

準々決勝は日大鶴ケ丘。

山陽は4-2で勝利。

春夏を通じて初めて出場した甲子園で、ベスト4へ進んだ。

準決勝の相手は沖縄水産。

栽弘義監督のもと、沖縄県勢初の決勝進出を目指す強豪だった。

山陽は1-6で敗れた。

決勝には届かなかった。

それでも、葛生戦の九回は一試合だけの奇跡ではなかった。

あの逆転が、選手たちに「甲子園でも勝てる」という感覚を与えた。

最初の一勝をつかんだ学校は、その勢いのまま全国の四強まで進んだ。

勝った山陽だけではない。

敗れた葛生の名も、この試合によって高校野球史へ残った。

甲子園の名勝負には、勝者だけでは成立しないものがある。

九回二死まで三点を守った葛生がいたから、山陽の奇跡は奇跡になった。

負けた初戦|1981年、広島商1-3新発田農

負けた初戦

大会
第63回全国高等学校野球選手権大会
回戦
1回戦
球場
阪神甲子園球場
対戦
新発田農(新潟)3-1 広島商(広島)
試合結果
延長10回、新発田農が2点を勝ち越して勝利
投手
須藤(新発田農)、森→川中(広島商)
特記事項
新発田農は次戦でも勝ち、一大会2勝を記録

広島商が初戦で負ける――それ自体が事件だった

広島商の校名には、甲子園の土の匂いが染み込んでいる。

1924年。

甲子園球場が開場した最初の大会で優勝。

1929年、1930年には夏連覇。

1957年。

1973年。

そして1988年。

時代が変わっても、広島商は全国の頂点へ立った。

広島商は、ただ勝つ学校ではなかった。

高校野球の戦術そのものへ影響を与えた学校だった。

バント。

走塁。

カットプレー。

一球ごとの守備位置。

一点を取るための工夫と、一点を与えないための準備。

昭和の夏、広島商が初戦で簡単に姿を消すことは、僕の記憶にはほとんどなかった。

対戦相手にとって、広島商の校名そのものが重かった。

1981年夏。

その広島商が、新発田農と対戦した。

北国の農業高校。

名門・広島商と比べれば、全国的な知名度には大きな差があった。

試合前、多くのファンは広島商が勝つと考えていたはずだ。

だが、初戦は校名で勝たせてくれない。

新発田農対広島商|延長10回のイニングスコア

学校名 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 安打
新発田農 0 0 0 0 0 0 0 0 1 2 3 6
広島商 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1 5
投手

新発田農:須藤
広島商:森 → 川中

本塁打

新発田農:なし
広島商:なし

8回まで0-0――新発田農は広商の時間に耐え続けた

試合は、広島商が得意とする展開に見えた。

大量点は入らない。

投手が踏ん張る。

守備で流れを渡さない。

一点を先に奪った側が勝つ。

広商が何度も経験してきた接戦である。

だが、新発田農の須藤は崩れなかった。

広島商打線に安打を許しても、得点を許さない。

走者を背負っても、次の打者を打ち取る。

広島商は四死球4。

犠打3。

広商らしく走者を進めようとした。

それでも、ホームへ返せない。

残塁は10。

八回を終えて0-0。

広島商は試合を支配しているように見えながら、得点だけを奪えなかった。

9回表、新発田農が先制した

9回表。

新発田農が1点を奪った。

0-0の試合で、最終回に先制点。

広島商にとっては、重い一点だった。

だが、まだ甲子園には「広商なら何とかする」という空気が残っていた。

過去の広島商は、こういう試合を何度も拾ってきた。

9回裏。

広島商が追いつく。

1-1。

土壇場で試合を振り出しへ戻した。

名門の粘り。

ここで新発田農の心が折れても不思議ではなかった。

先制した直後に追いつかれた。

相手は、甲子園を知り尽くす広島商。

延長へ入れば、経験の差が出る。

多くの人が、そう思ったはずだ。

延長10回、新発田農は名門の空気にのみ込まれなかった

延長10回表。

新発田農は、もう一度広島商へ向かっていった。

9回裏に追いつかれたことを引きずらない。

甲子園の歓声に怯えない。

この回、2点を奪った。

新発田農3-1広島商。

9回に奪った一点より、さらに大きな二点だった。

その裏。

広島商は得点できなかった。

試合終了。

新発田農3-1広島商。

全国制覇を重ねた名門が、初戦で姿を消した。

広島商の名前も、過去の優勝回数も、延長10回の攻防では一点を生んでくれなかった。

新発田農対広島商|詳細記録

学校名 打数 安打 打点 二塁打 三塁打 本塁打 三振 四死球 犠打 盗塁 失策 残塁
新発田農 35 6 1 1 0 0 7 2 2 1 3 6
広島商 34 5 1 1 0 0 4 4 3 1 3 10

※詳細記録は、朝日・日刊スポーツ大会アーカイブの提供画面をもとに転記。得点と打点が一致しない部分は、失策や野選など打点が記録されない得点を含むためと考えられる。

広島商は、四死球4、犠打3を記録している。塁へ出て、送り、得点圏へ進めるところまでは、広商らしい野球ができていた。

しかし残塁は10。走者を進めても、最後の一本が出なかった。

新発田農も3失策を記録している。完璧な試合ではなかった。それでも須藤が延長10回まで投げ、広島商を5安打、1点に抑えた。

名門を倒す試合は、必ずしも美しくない。崩れそうな場面で崩れず、最後まで相手より二点多く残した。それが新発田農の勝利だった。

新発田農の勝利は、新潟の高校野球史も動かした

新発田農は、広島商に勝っただけで終わらなかった。

次の2回戦。

相手は東海大甲府。

新発田農は4-3で勝利した。

広島商戦に続く接戦をものにし、一大会で2勝を挙げた。

3回戦では今治西に1-9で敗れた。

全国の頂点へ進んだわけではない。

それでも、雪国の農業高校が、広島商と東海大甲府を破った夏は大きかった。

安田辰昭監督は後年、広島商を「百回戦って一回勝てるかどうか」という趣旨で振り返ったと伝えられている。

その正確な文言について、僕が確認できた範囲では当日の一次紙面まで照合できていない。

ただ、その言葉が長く語り継がれてきた理由は分かる。

広島商は、それほど大きな相手だった。

新発田農にとって、校名に怯えず戦った一日は、自分たちの一勝を越えて、北国の高校球児へ勇気を与えるものだった。

広島商は翌1982年、自分たちの野球で決勝まで戻った

新発田農に敗れた翌夏。

広島商は、再び甲子園へ戻ってきた。

初戦の鉾田一に6-2。

興南に4-2。

比叡山に5-2。

広島商らしい、相手を大きく突き放さず、しかし確実に勝ち切る試合が続いた。

準決勝の相手は中京。

高校野球史を背負う、東西の名門対決だった。

中京には、2年生の好投手・野中がいた。

広島商は2回、スクイズで1点を奪った。

その後は安打をほとんど打てない。

それでも、エース池本と守備陣が一点を守った。

中京0-1広島商。

広島商は決勝へ進んだ。

新発田農戦で一点を取り切れずに敗れた学校が、翌夏はスクイズの一点だけで準決勝を勝った。

これほど広島商らしい復活はない。

決勝では、金属バット時代の象徴・池田に屈した

決勝の相手は池田。

畠山、水野らを擁した「やまびこ打線」だった。

鍛え上げた体。

強いスイング。

打球を外野の頭上へ運ぶ豪快な野球。

僕らの記憶では、池田はまさに金属バット時代の申し子だった。

守り、送り、一点を奪う広島商。

鍛え、振り、長打でのみ込む池田。

決勝は、二つの時代の野球がぶつかったように見えた。

結果は池田12-2広島商。

広島商は大差で敗れた。

全国制覇には届かなかった。

それでも、広島商が決勝まで戻った意味は大きかった。

金属バットの時代になっても、広商野球は通用する。

守備と走塁と一点で、全国の頂点近くまで進める。

1981年の一敗は、広商野球の終わりを告げたのではなかった。

自分たちの野球を、時代の中で磨き直すきっかけになった。

1988年、広島商は六度目の夏制覇を果たした

1982年の準優勝から6年。

1988年夏。

広島商は、再び甲子園へ出場した。

最初の試合は上田東。

スコアは4-3。

一点差。

簡単な初戦ではなかった。

だが、今度の広島商は勝ち切った。

日大一に12-1。

津久見に5-0。

準決勝で浦和市立に4-2。

決勝の相手は福岡第一。

福岡第一には、後にプロでも活躍する前田幸長がいた。

広島商の上野との投手戦。

8回まで0-0。

9回表、広島商が1点を奪った。

その一点を守り切った。

広島商1-0福岡第一。

六度目の夏の全国制覇。

1981年、新発田農戦では9回に追いつきながら、延長10回に二点を奪われた。

1988年の決勝では、9回に奪った一点を最後まで守った。

七年前に手からこぼれた接戦を、全国の頂点でつかみ直したようにも見える。

新発田農に敗れた一日は、広商野球の終わりではなかった。
古い野球が、金属バットの時代で生き直すための、痛い目覚まし時計だった。

山陽と広島商|始まりの一勝、目覚めの一敗

1990年・山陽

春夏を通じて初の甲子園出場。

葛生を相手に9回裏二死走者なし、1-4から4点を奪い、5-4で逆転サヨナラ勝ちした。

最初の一勝をきっかけに、星林、日大鶴ケ丘を破り、初出場でベスト4まで進出した。

1981年・広島商

夏5度の全国制覇を経験していた名門。

新発田農に9回表で先制され、その裏に追いついたが、延長10回に2点を奪われ1-3で敗れた。

翌1982年に準優勝し、1988年には六度目の夏の全国制覇を果たした。

山陽には、甲子園で失う過去がなかった。

勝利の記憶も、敗北の記憶もない。

最初の試合で、最初の歴史をつくった。

広島商には、守るべき過去が多すぎた。

優勝回数。

先輩たちの戦術。

全国が知る校名。

新発田農戦では、その重みを背負ったまま初戦で敗れた。

だが、一敗は学校の歴史を終わらせなかった。

山陽は、勝利によって自分たちが何者かを知った。

広島商は、敗北によって自分たちが何者だったかを思い出した。

一勝から始まる学校がある。

一敗から立ち直る学校がある。

どちらも、甲子園の初戦だからこそ生まれた物語だった。

もう一つの初戦|1988年、広島商4-3上田東

第70回全国高等学校野球選手権大会・2回戦

広島商 4-3 上田東

六度目の全国制覇は、一点差の苦しい初戦から始まった

1988年の広島商は、最初から圧倒的だったわけではない。

大会初戦の上田東戦は4-3。

わずか一点差だった。

初戦を勝ち切る難しさを、1981年の広島商は身をもって知っていた。

九回までに相手より一点だけ多く残す。

それができれば、次の試合へ進める。

上田東戦を越えた広島商は、日大一戦で打線が爆発し、以降は守備と投手力を軸に勝ち進んだ。

決勝の福岡第一戦は1-0。

優勝を決めた一点も、初戦で守った一点差も、広商野球の同じ線上にある。

全国制覇の物語は、決勝だけで始まるのではない。

危うい初戦を越えたところから、すでに優勝への道は始まっている。

広島の初戦史が教える、勝負の「最後の一つ」

山陽に必要だったのは、最後のアウトを取られる前に、一人が塁へ出ることだった。

広島商に必要だったのは、残した十人の走者のうち、一人をもう一度ホームへ返すことだった。

山陽は、二死走者なしから最後の一つをつないだ。

広島商は、走者を出しながら最後の一本を打てなかった。

野球では、大きな差がそのまま勝敗になるとは限らない。

安打数で勝っても負ける。

失策があっても勝つ。

八回まで劣勢でも、九回にひっくり返す。

九回に追いついても、延長で敗れる。

だから初戦は怖い。

過去の実績を持ち込めない。

全国制覇の回数も、県大会の圧勝も、その日の最後のアウトを保証してくれない。

山陽の一勝は、最後まで終わりを受け入れなかった勝利だった。

広島商の一敗は、名門であっても初戦の前では一校の挑戦者に戻ることを教えた。

まとめ|九回二死から始まった山陽と、延長十回から生き直した広島商

1990年夏。

春夏を通じて初出場の山陽は、葛生との初戦を迎えた。

8回を終えて1-4。

9回裏、二死走者なし。

あと一つのアウトで、初めての甲子園は終わるはずだった。

伊藤が左前安打。

川岡が四球。

鍵本が左前安打。

二死満塁。

新谷の三塁内野安打で4-2。

網本の左前打で4-3。

香山の右前打で二者が生還。

山陽5x-4葛生。

9回二死走者なしから、4点を奪う逆転サヨナラだった。

山陽は、その勢いだけに頼らなかった。

星林に6-1。

日大鶴ケ丘に4-2。

初出場でベスト4へ進んだ。

1981年夏。

全国制覇を重ねてきた広島商は、新発田農と対戦した。

8回まで0-0。

9回表、新発田農が先制。

9回裏、広島商が追いついた。

だが延長10回、新発田農が2点。

新発田農3-1広島商。

広島商は初戦で姿を消した。

新発田農は次の東海大甲府戦にも4-3で勝った。

一方の広島商は、翌1982年夏に甲子園へ戻った。

準決勝では中京を1-0で破った。

決勝で池田に2-12と敗れたが、全国準優勝。

そして1988年。

決勝で福岡第一を1-0で破り、六度目の全国制覇を成し遂げた。

山陽は、一勝から歴史を始めた。

広島商は、一敗から自分たちの野球を立て直した。

9回二死走者なし。

延長10回。

どちらも、試合の終わりに近い場所で生まれた。

一方には、終わりかけた夏をつなぐ一本があった。

もう一方には、名門を生き直させる敗北があった。

甲子園では、勝った学校だけが物語を持つのではない。

敗れた学校も、その一敗を抱えて次の夏へ進む。

葛生の九回があったから、山陽の奇跡は残った。

新発田農の十回があったから、広島商の復活は深くなった。

白球は、勝者と敗者の間を転がりながら、広島の夏を次の時代へ運んでいった。

あの夏の白球は、今も心を走り続けている。

広島の甲子園初戦史に関するFAQ

Q1.なぜ「勝った初戦」に1990年の山陽対葛生を選んだのか?
春夏を通じて甲子園初出場だった山陽が、9回裏二死走者なし、1-4の三点差から4点を奪い、5-4で逆転サヨナラ勝ちした試合だからだ。山陽はこの一勝をきっかけに、初出場でベスト4まで進んだ。
Q2.山陽は9回二死走者なしから、どのように逆転したのか?
伊藤の左前安打、川岡の四球、鍵本の左前安打で満塁とした。新谷の三塁内野安打で1点、網本の左前打で1点を返し、最後は香山の右前打で二者が生還。4点を奪って5-4でサヨナラ勝ちした。
Q3.なぜ「負けた初戦」に1981年の広島商対新発田農を選んだのか?
夏の全国制覇を重ね、初戦にも強い印象のあった広島商が、8回まで0-0、9回に追いつきながら、延長10回に2点を奪われ1-3で敗れた象徴的な一戦だからだ。翌1982年の準優勝と、1988年の全国制覇へつながる起点としても描ける。
Q4.新発田農は広島商に勝った後、どこまで進んだのか?
2回戦で東海大甲府に4-3で勝利し、一大会2勝を記録した。3回戦では今治西に1-9で敗れたが、広島商と東海大甲府を続けて破った夏は、新潟県高校野球史に残るものとなった。
Q5.広島商は新発田農戦の後、どのように復活したのか?
翌1982年夏に甲子園へ戻り、中京との準決勝を1-0で制して全国準優勝した。1988年夏には決勝で福岡第一を1-0で破り、六度目の夏の全国制覇を成し遂げた。

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使用した主な情報ソース

記録と表記について:
本文中の試合スコア、イニング、投手、本塁打および詳細記録は、朝日・日刊スポーツ高校野球大会アーカイブ、阪神甲子園球場公式記録、報道記事、ならびに提供された大会記録画面を照合して作成した。「広島代表は守備が強く初戦を手堅く勝つ印象がある」「1981年の敗戦が広島商を目覚めさせた」という記述は、筆者の観戦記憶と球史を踏まえた解釈である。安田辰昭監督の「百回戦って一回勝てるかどうか」という趣旨の発言は後年の回想として伝わるが、当日の一次紙面による正確な文言の照合には至っていないため、断定的な直接引用を避けた。

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