初戦・故郷の白球史|49代表地区に残る、勝った夏と負けた夏
高知の甲子園初戦クロニクル|土佐・玉川寿のサイクル安打と、明徳義塾が初めて敗れた夏
高知代表の初戦には、どこか独特の静けさがある。
派手な掛け声より先に、投手が低めへ投げる。
長打を待つ前に、走者を送る。
一つのアウトを丁寧に取り、相手が焦り始めるのを待つ。
高知商、高知、土佐、明徳義塾。
学校は違っても、僕の記憶の中にある高知の野球は、いつも試合の輪郭が崩れない。
甲子園の初戦でも、いつの間にか高知代表が主導権を握り、気づけば手堅く勝っている。
だからこそ、1975年の土佐は異彩を放つ。
相手は京都の桂。
土佐は17安打を放ち、8-1で快勝した。
その中心にいたのが、2年生の玉川寿だった。
本塁打。
三塁打。
二塁打。
そして最後に、一本の単打。
一人の打者が、一試合の中で四種類の安打をすべてそろえた。
サイクル安打。
夏の甲子園史上2人目の記録だった。
そして40年後の2015年。
高知代表には、別の記録が懸かっていた。
明徳義塾は、夏の甲子園初出場から初戦16連勝中。
甲子園へ出れば、最初の試合では負けない。
それは偶然ではなく、馬淵史郎監督と明徳義塾が長い歳月をかけて築いた、ひとつの文化だった。
相手は、春のセンバツ王者・敦賀気比。
明徳義塾は3-0と先行した。
それでも追いつかれ、延長10回、二死満塁。
篠原涼の打球が二遊間を破った。
敦賀気比4x-3明徳義塾。
一人の打者が完成させた記録。
一校が、あと一つ積み上げられなかった記録。
高知編では、「生まれた記録」と「止まった記録」を、二つの初戦からたどっていく。
高知代表は、初戦で野球の形を崩さなかった
高知県の高校野球史には、時代ごとに異なる顔がある。
戦後の高知商。
1964年夏に県勢初優勝を果たした高知。
文武両道の白いユニホームで甲子園を走った土佐。
1980年代以降、全国屈指の勝負強さを身につけた明徳義塾。
参加校数の多い地域ではない。
それでも高知県勢は、春夏を通じて全国の頂点へ何度も手を伸ばしてきた。
高知、高知商、伊野商、明徳義塾。
県勢の全国制覇は、一校だけに集中していない。
これは、高知の高校野球が一人の名将や一つの私学だけでつくられたものではないことを物語る。
投手を中心に守る。
送り、走り、相手の綻びを待つ。
打つべき球だけを振る。
僕には、高知代表の初戦には、その土地に蓄積された「試合の入り方」があるように見える。
初戦は、甲子園で最も難しい試合だ。
球場の大きさ。
土の硬さ。
歓声の向き。
地方大会では経験しなかった緊張が、最初の一球から押し寄せる。
その中で高知代表は、自分たちの野球を見失うことが少なかった。
大差をつけなくても勝つ。
相手に流れを渡さず、終わってみれば一点、二点、多く取っている。
だから、土佐の8-1は珍しかった。
高知らしい手堅さの上に、17本の安打が重なった。
そして玉川寿のバットから、甲子園史に残る四本が生まれた。
勝った初戦|1975年、土佐8-1桂
勝った初戦
- 大会
- 第57回全国高等学校野球選手権大会
- 試合日
- 1975年8月10日
- 回戦
- 2回戦・両校にとっての大会初戦
- 球場
- 阪神甲子園球場
- 対戦
- 土佐(南四国・高知)8-1 桂(京都)
- 投手
- 片田→伊藤(土佐)、今泉(桂)
- 特記事項
- 土佐・玉川寿が夏の甲子園史上2人目のサイクル安打
白いユニホームの土佐は、全力疾走で甲子園へ入ってきた
土佐高校には、独特の空気がある。
高知県屈指の進学校。
白を基調としたユニホーム。
攻守交代のたびに、選手たちはきびきびと走る。
華やかなスター軍団というより、鍛えられた学生たちが、自分たちの規律を甲子園へ持ち込んでくる。
土佐は1953年夏、甲子園で準優勝している。
決勝まで進み、松山商に延長13回の末、2-3で敗れた。
全国制覇には届かなかった。
それでも「土佐」の二文字は、戦後の高知県高校野球史に深く刻まれた。
1975年夏。
土佐は南四国代表として甲子園へ戻ってきた。
対戦相手は京都の桂。
試合は2回まで0-0。
土佐らしい静かな立ち上がりだった。
だが3回。
白いユニホームの打線が、一気に動き始める。
土佐対桂|8-1のイニングスコア
| 学校名 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | 安打 |
| 土佐 | 0 | 0 | 3 | 0 | 1 | 2 | 1 | 1 | 0 | 8 | 17 |
| 桂 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 4 |
|
投手
土佐:片田 → 伊藤 |
本塁打
土佐:玉川 |
3回、玉川寿の一発から試合が動いた
3回表。
土佐は3点を奪った。
その攻撃の中心に、2年生の玉川寿がいた。
第2打席。
玉川の打球は右中間へ伸び、ラッキーゾーンへ飛び込んだ。
2点本塁打。
一振りで、試合の静けさが破れた。
夏の甲子園に出る打者なら、本塁打だけでも十分に記憶へ残る。
だが、この日の玉川にとって、その一発は始まりにすぎなかった。
土佐は5回にも1点。
6回に2点。
7回、8回にも1点ずつを加えた。
スコアボードには、3回以降、ほとんど毎回のように数字が灯った。
桂の今泉を相手に17安打。
二塁打4本、三塁打1本、本塁打1本。
長打だけではない。
盗塁も4つ。
土佐は塁へ出て、次の塁を奪い、得点を積み上げた。
本塁打の次は、三塁打だった
玉川の第3打席。
打球は外野の奥へ抜けた。
玉川は一塁を回る。
二塁も蹴る。
三塁へ滑り込む。
三塁打。
これで本塁打と三塁打がそろった。
サイクル安打で最も難しいといわれるのは、しばしば三塁打である。
本塁打はスタンドへ入ればいい。
二塁打は外野の間を抜けば生まれる。
だが三塁打には、打球の方向、外野守備、走者の脚力、判断が同時に必要になる。
玉川は、早い段階でその難しい一本を手にした。
ただ、本人がその時点で記録を意識していたかは別の話だ。
まだ試合の中盤。
土佐にとっては、初戦を勝ち切ることが最優先だった。
第4打席で二塁打――残ったのは、普通の安打だった
第4打席。
玉川は二塁打を放った。
本塁打。
三塁打。
二塁打。
あと一本。
残ったのは、最も小さな安打だった。
単打。
野球では、最も多く目にする一本である。
外野の前へ落ちる。
内野を抜ける。
一塁へ到達すればいい。
だが、サイクル安打を意識した瞬間、その普通の一本が急に遠くなる。
長打を打つ力があるからこそ、打球は外野の間を抜ける。
強く振れば、また二塁へ到達してしまうことさえある。
記録を知る観客は、次の打席を待った。
桂の今泉も、単打が出ればサイクル安打になることを理解していたと伝えられている。
だが玉川自身は、試合が終わるまで強く意識していなかったという。
第5打席、最後に最も小さな一本が落ちた
第5打席。
玉川の打球は、安打になった。
一塁へ到達する。
単打。
サイクル安打完成。
大きな一発から始まり、最後は最も普通の一本で終わった。
僕は、この順番が好きだ。
記録の最後に必要だったのは、もう一度スタンドへ運ぶ力ではなかった。
白球を野手のいない場所へ落とし、一塁まで走ることだった。
本塁打も一安打。
単打も一安打。
野球は、すべての一本を同じ「H」の文字で記録する。
その四種類が一日の中でそろった。
玉川寿は、夏の甲子園史上2人目のサイクル安打達成者になった。
土佐対桂|詳細記録
| 学校名 | 打数 | 安打 | 打点 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 三振 | 四死球 | 犠打 | 盗塁 | 失策 | 残塁 |
| 土佐 | 41 | 17 | 8 | 4 | 1 | 1 | 3 | 1 | 2 | 4 | 3 | 9 |
| 桂 | 30 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 13 | 3 | 0 | 0 | 3 | 6 |
※詳細記録は、朝日・日刊スポーツ大会アーカイブの提供画面をもとに転記。
土佐は17安打を放ったが、僕がこの試合に感じる魅力は、単なる猛打ではない。
盗塁4、犠打2。打って終わりではなく、走者を進め、次の一点を取りにいった。その中に、玉川の四種類の安打が自然に組み込まれている。
記録をつくるために試合をしたのではない。試合に勝つために一本ずつ積み重ねた結果、歴史的記録が生まれた。そこが、このサイクル安打の美しさだと思う。
玉川寿は「夏の甲子園初」ではなく、史上2人目だった
長い間、玉川寿のサイクル安打を「夏の甲子園史上初」と記憶していたファンもいるかもしれない。
僕自身も、玉川の記録を見て初めて「サイクルヒット」という言葉を知った世代の一人だ。
だが、記録をたどると、玉川は史上2人目である。
最初の達成者は、1949年夏の平安・杉山慎二郎。
盛岡戦で単打、二塁打、三塁打、本塁打をそろえた。
ただし当時の日本では、サイクル安打という言葉や概念が広く定着していなかった。
そのため杉山の記録は、後世ほど大きく報じられなかった。
1975年の玉川は違った。
新聞各紙が大きく取り上げ、甲子園の観客も「あと単打でサイクル」と理解しながら最後の打席を見守った。
公式な「史上初」ではない。
だが、多くの野球ファンへサイクル安打という記録を鮮烈に伝えた、象徴的な達成者だった。
夏の甲子園でサイクル安打を達成した6人
- 1949年 平安・杉山慎二郎 対盛岡
- 1975年 土佐・玉川寿 対桂
- 1991年 大阪桐蔭・澤村通 対秋田
- 1998年 明徳義塾・藤本敏也 対横浜
- 2004年 駒大苫小牧・林裕也 対横浜
- 2019年 敦賀気比・杉田翔太郎 対国学院久我山
2019年、敦賀気比の杉田翔太郎が夏史上6人目として達成した。
春のセンバツでは、1979年決勝の箕島・北野敏史が唯一の達成者とされている。
春夏を合わせても、確認されているのは7人。
ノーヒットノーランや1試合複数本塁打と同じように、何十年に一度しか現れない記録である。
高知県勢から、夏の達成者が二人も出ている
さらに面白いのは、夏の達成者6人のうち、二人が高知県代表だということだ。
1975年の土佐・玉川寿。
1998年の明徳義塾・藤本敏也。
藤本が達成したのは、松坂大輔の横浜との準決勝。
明徳義塾は8回表まで6-0とリードしていた。
藤本はサイクル安打を完成させた。
それでも試合は、横浜が8、9回に7点を奪って逆転サヨナラ勝ちした。
サイクル安打を達成した選手のチームが敗れた、唯一の例とされる。
同じ高知県から二人。
一人は初戦の快勝で達成し、一人は準決勝の歴史的逆転負けの中で達成した。
記録は同じでも、試合の結末は正反対だった。
だから高校野球の記録は、数字だけでは語り切れない。
土佐の夏は、次の上尾戦で一点届かなかった
桂に8-1で勝った土佐は、次の3回戦で埼玉の上尾と対戦した。
結果は3-4。
初戦で17安打を放った打線も、今度はあと一点に届かなかった。
玉川のサイクル安打が生まれた夏は、ベスト8へ進む前に終わった。
それでも、1975年の土佐は消えない。
優勝校ではない。
決勝進出校でもない。
だが、甲子園史を開けば、サイクル安打の欄に「土佐・玉川寿」と残っている。
一度の夏に、一人の打者が残した四本。
学校の勝敗を越えて生き続ける記録がある。
負けた初戦|2015年、明徳義塾3-4x敦賀気比
負けた初戦
- 大会
- 第97回全国高等学校野球選手権大会
- 試合日
- 2015年8月8日
- 回戦
- 1回戦
- 球場
- 阪神甲子園球場
- 対戦
- 敦賀気比(福井)4x-3 明徳義塾(高知)
- 試合結果
- 延長10回、敦賀気比がサヨナラ勝ち
- 投手
- 飛田→七俵→佐田(明徳義塾)、平沼(敦賀気比)
- 特記事項
- 明徳義塾の夏の甲子園初戦連勝が16で止まる
明徳義塾は、夏の初戦で負けたことがなかった
明徳義塾が夏の甲子園へ初めて出場したのは、1984年。
それ以来、夏の初戦では負けなかった。
16大会。
16勝。
対戦相手も、大会の空気も、チームの戦力も毎年違う。
それでも最初の試合だけは勝つ。
一度や二度なら、組み合わせや巡り合わせともいえる。
だが16回続けば、それは学校の文化である。
明徳義塾は、初戦に勝つための準備を知っていた。
試合開始直後の緊張を、どうやって落ち着かせるか。
甲子園の歓声に、どうやって飲まれないか。
相手投手の癖を、どこで見抜くか。
一点を守るために、どの守備位置を取るか。
馬淵史郎監督の野球は、偶然に期待しない。
勝利へ到達する道を細かく設計し、その道から外れないように九回を進む。
初戦にめっぽう強かったのは、その象徴だった。
相手は、春の王者・敦賀気比
2015年春。
敦賀気比はセンバツで初優勝した。
北陸勢としても、春の甲子園初優勝だった。
エースは平沼翔太。
打線には篠原涼、林中勇輝、松本哲幣らが並んだ。
準決勝では大阪桐蔭を11-0で破り、決勝では東海大四に3-1。
春の頂点へ立ったチームが、史上8校目の春夏連覇を目指して夏へ戻ってきた。
ただ、僕には、その夏の敦賀気比がどこか重い荷物を背負っているようにも見えた。
春に全国制覇したチームは、夏までの数か月を追われる立場で過ごす。
練習試合でも研究される。
地方大会では、すべての相手が王者を倒そうと向かってくる。
平沼の右腕にも、春から積み重なった疲労があったのかもしれない。
これは記録ではなく、あくまで当時の僕の印象である。
それでも、春の王者であることが、夏の初戦を簡単にしてくれるわけではなかった。
そして対戦相手は、夏の初戦で一度も負けていない明徳義塾だった。
春の王者。
夏の初戦王者。
どちらかの記録には、必ず傷がつく組み合わせだった。
明徳義塾対敦賀気比|延長10回のイニングスコア
| 学校名 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 計 | 安打 |
| 明徳義塾 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 8 |
| 敦賀気比 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 1x | 4 | 15 |
|
投手
明徳義塾:飛田 → 七俵 → 佐田 |
本塁打
明徳義塾:なし |
初回、明徳義塾はいつものように先手を取った
明徳義塾は初回、先頭の七俵が出塁した。
打球は不規則なバウンドを見せ、内野安打となった。
送って一死二塁。
暴投で三塁へ進む。
神藤が右前へ運び、1点を先制した。
明徳らしい。
相手が春の王者でも、初回から試合の形をつくる。
先頭打者を出す。
送り、進め、一本で返す。
甲子園の初戦で16回繰り返してきた勝ち方が、17回目の初戦でも始まった。
敦賀気比は2回裏、一死満塁の好機をつくった。
しかし嘉門が投手ゴロ。
1-2-3の併殺で無得点に終わった。
明徳は、春の王者の反撃を守備で断った。
3回、連続適時打で3-0
3回表。
二死から真田が右前安打。
神藤が四球を選ぶ。
二死一、二塁。
古川が適時打。
続く佐田も適時打。
明徳義塾が2点を加え、3-0とした。
初戦16連勝の学校が、春の王者を序盤で三点差へ追い込んだ。
平沼は本来の制球を欠いていた。
打者の背中を通るような抜け球もあった。
後に本人も、ブルペンから状態が良くなかったと振り返っている。
僕には、春から夏へ背負い続けたものが、平沼の右腕へ重く乗っているように見えた。
明徳は、その揺らぎを見逃さなかった。
6回、林中の一発が王者を目覚めさせた
5回まで、敦賀気比は無得点。
明徳の守備は崩れない。
このまま馬淵監督の設計どおり、試合が静かに閉じていくようにも見えた。
だが6回裏。
林中勇輝が左翼へ本塁打を放った。
3-1。
春の甲子園を制した打線が、ようやく目を覚ました。
平沼、山本、松本と安打が続き、敦賀気比はもう1点を加えた。
3-2。
一気に一点差。
明徳は飛田から七俵、佐田へ継投した。
一人の投手だけに試合を預けず、相手打線の目先を変える。
それも明徳らしい選択だった。
しかし、一度動き始めた王者の流れを完全には止められなかった。
8回、山本の三塁打と松本の一打で同点
8回裏。
山本が中堅へ三塁打を放った。
無死三塁。
打席には松本。
春のセンバツで、大阪桐蔭戦の2打席連続満塁本塁打など、歴史的な長打を放った打者である。
この場面で必要なのは、本塁打ではなかった。
三塁走者を返す一本だった。
松本は右前へ安打を放つ。
山本がホームへ帰る。
3-3。
明徳義塾は、三点のリードを失った。
それでも、崩れたわけではない。
9回は両校無得点。
試合は延長へ入った。
夏の初戦で一度も負けていない明徳。
春夏連覇を狙う敦賀気比。
どちらも、ここで終わる理由を持っていなかった。
延長10回、三つの四球が満塁をつくった
延長10回表。
明徳義塾は得点できなかった。
その裏。
敦賀気比は、安打ではなく四球から走者をためた。
一つ。
二つ。
三つ。
二死満塁。
記録上、明徳義塾に失策はない。
守備が白球をこぼしたわけではない。
だが、ストライクゾーンへ投げ切れなかった三つの打席が、満塁をつくった。
打席は主将・篠原涼。
二塁手は一、二塁間を狭める。
篠原は、その動きを見ていた。
狙いはセンター返し。
追い込まれてもファウルで粘り、低めの変化球を二遊間へ弾き返した。
白球が中前へ抜ける。
三塁走者がホームを踏む。
4x-3。
敦賀気比、サヨナラ勝ち。
明徳義塾対敦賀気比|詳細記録
| 学校名 | 打数 | 安打 | 打点 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 三振 | 四死球 | 犠打 | 盗塁 | 失策 | 残塁 |
| 明徳義塾 | 34 | 8 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 2 | 0 | 0 | 5 |
| 敦賀気比 | 37 | 15 | 4 | 1 | 1 | 1 | 4 | 5 | 4 | 0 | 0 | 13 |
※詳細記録は、朝日・日刊スポーツ大会アーカイブの提供画面をもとに転記。
明徳義塾に失策はなかった。三振もわずか三つ。八安打で三点を奪い、序盤は春の王者を完全に追い込んだ。
それでも敦賀気比は15安打を放ち、残塁13。何度走者を残しても、次の好機をつくり続けた。そして最後は三つの四球と一本の中前打だった。
初戦16連勝の明徳が雑に負けたわけではない。明徳らしく試合を組み立て、明徳らしく粘った。その上を、春の王者が一点だけ越えた。
「夏の明徳」が、初めて最初の試合で姿を消した
試合終了後、馬淵監督は敗戦を受け止めた。
明徳義塾が夏の甲子園で初戦敗退したのは、これが初めてだった。
初出場から続いた16連勝。
17勝目には届かなかった。
この記録のすごさは、止まった瞬間にかえって鮮明になる。
三十年以上にわたり、夏の甲子園へ出場したすべてのチームが、必ず最初の試合を勝っていた。
松井秀喜への五打席連続敬遠で全国の議論を呼んだ1992年も。
全国制覇を成し遂げた2002年も。
毎年、選手は入れ替わった。
それでも初戦の勝利だけは引き継がれてきた。
記録が止まったからといって、明徳の初戦力が否定されるわけではない。
むしろ、春の王者を3-0と追い込み、延長10回まで戦った内容が、明徳の強さを証明している。
夏の初戦で初めて負けた日にも、明徳義塾は明徳義塾だった。
敦賀気比も、春夏連覇までは届かなかった
明徳義塾を破った敦賀気比は、春夏連覇へ最初の関門を越えた。
平沼は状態が万全ではない中、延長10回まで142球を投げた。
序盤に三点を失っても、4回以降は明徳に得点を許さなかった。
だが、春夏連覇への道は続かなかった。
2回戦の相手は花巻東。
敦賀気比は3-8で敗れた。
春の王者の夏は、二試合で終わった。
明徳義塾を倒したことで、春夏連覇が保証されたわけではない。
甲子園では、一つの難関を越えると、すぐ次の難関が現れる。
王者であっても、一試合ずつ勝つしかない。
明徳の初戦16連勝がどれほど特別だったかは、敦賀気比のその後を見ても分かる。
土佐と明徳義塾|生まれた記録、止まった記録
1975年・土佐
玉川寿が夏の甲子園史上2人目のサイクル安打。
本塁打、三塁打、二塁打、単打を一試合でそろえ、土佐は桂に17安打、8-1で快勝した。
一人の打者が、甲子園史へ新しい記憶を加えた初戦だった。
2015年・明徳義塾
夏の初戦16連勝が初めて止まった。
センバツ王者・敦賀気比に3-0と先行しながら追いつかれ、延長10回に3-4でサヨナラ負けした。
一校が三十年以上つないだ記録が、春の王者との激戦で止まった初戦だった。
土佐の玉川は、四種類の安打を完成させた。
明徳義塾は、十七個目の初戦勝利を完成させられなかった。
一方は個人記録。
一方は学校の連勝記録。
種類は違う。
だが、どちらも高知の高校野球が持つ濃さを伝えている。
土佐は文武両道の進学校として、規律ある野球の中から希少な打撃記録を生んだ。
明徳義塾は勝負へ徹する野球を積み重ね、初戦16連勝という、簡単には再現できない学校記録を築いた。
高知の野球は、いつも派手ではない。
それでも、一度記録が生まれると、その数字は球史の深い場所へ残る。
もう一つの勝った初戦|2018年、高知商14-12山梨学院
第100回全国高等学校野球選手権記念大会・1回戦
高知商 14-12 山梨学院
両校計30安打、26得点。再逆転が続いた、黒潮打線の復活
高知代表の初戦は、いつも静かで手堅いわけではない。
ときには黒潮が、スコアボードをのみ込む。
2018年夏。
12年ぶりに甲子園へ戻った高知商は、山梨学院との初戦で壮絶な打撃戦を演じた。
山梨学院が初回に1点。
高知商は2回に同点。
3回に2点、4回に4点を奪い、7-1とした。
そこで試合が落ち着くかに見えた。
だが5回表、山梨学院が一挙8点。
満塁本塁打も飛び出し、7-9と逆転した。
普通なら、六点差をひっくり返された側の心が折れる。
しかし高知商は6回裏、4点を奪って11-10と再逆転。
7回表、山梨学院が2点を奪い、再び12-11。
その裏、高知商が3点を奪った。
14-12。
両校計30安打。
26得点。
逆転、再逆転、再々逆転。
土佐の17安打とも違う。
明徳義塾の一点を守る野球とも違う。
打っても、打たれても、また打つ。
高知商は、12年ぶりの甲子園勝利を、最も騒がしい形でつかんだ。
「高知代表は初戦を手堅く勝つ」
そんな僕の印象を、豪快に裏切る一戦だった。
だが、何度逆転されても試合の形を手放さないところには、やはり高知らしさがあった。
高知の初戦史には、学校ごとに違う勝ち方がある
高知商には、高知商の勝ち方がある。
伝統校らしい試合運びと、ときに爆発する黒潮打線。
高知高校には、投手を中心とした守りと、全国制覇を知る古豪の落ち着きがある。
土佐には、規律と全力疾走がある。
明徳義塾には、勝負を九回から逆算する設計がある。
どれも同じ高知代表だが、同じ野球ではない。
だから都道府県別の初戦史は面白い。
県名だけを見れば、一つの代表である。
だが、ユニホームの中には学校の歴史、監督の思想、地域の記憶が入っている。
1975年の土佐は、玉川のサイクル安打を生んだ。
2015年の明徳義塾は、初戦16連勝が止まった。
2018年の高知商は、26得点の乱打戦を勝ち切った。
一つの県だけでも、初戦の表情はこれほど違う。
まとめ|四本をそろえた夏と、十七勝目だけが届かなかった夏
1975年夏。
土佐は京都の桂と対戦した。
2回まで0-0。
3回、土佐が3点を先制した。
2年生の玉川寿は、第2打席で2点本塁打。
その後、三塁打、二塁打を放った。
第5打席で単打。
本塁打、三塁打、二塁打、単打。
夏の甲子園史上2人目のサイクル安打を完成させた。
土佐は17安打。
盗塁4。
5回から8回まで毎回得点を重ね、8-1で勝利した。
玉川は夏の甲子園初の達成者ではない。
1949年に平安の杉山慎二郎が先に記録している。
だが、玉川のサイクル安打は新聞で大きく報じられ、多くのファンへ記録の名を刻んだ。
そして2015年夏。
明徳義塾は、春のセンバツ王者・敦賀気比と対戦した。
明徳義塾は夏の初戦16連勝中。
初回に1点。
3回に2点。
3-0と先行した。
敦賀気比は6回、林中の本塁打などで2点。
8回、山本の三塁打と松本の適時打で3-3とした。
延長10回裏。
三つの四球で二死満塁。
主将・篠原が中前へサヨナラ打を放った。
敦賀気比4x-3明徳義塾。
明徳義塾は、夏17回目の出場で初めて初戦に敗れた。
一人の打者が、四種類の安打をすべてそろえた夏。
一校が、十七個目の初戦勝利だけをそろえられなかった夏。
記録は、ときに選手や学校を永遠にする。
だが、記録の本当の美しさは、数字が止まらないことではない。
始まりがあり、積み重ねがあり、いつか終わることにある。
1975年、玉川の最後の単打。
2015年、篠原の最後の中前打。
どちらも、スコアブックには同じ「安打」と記される。
けれど一方は記録を完成させ、もう一方は記録を終わらせた。
白球は、その重みを知らない。
ただ野手の間を抜け、甲子園の芝を転がっていく。
あの夏の白球は、今も心を走り続けている。
高知の甲子園初戦史に関するFAQ
関連記事・内部リンク
使用した主な情報ソース
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Full-Count「甲子園でのサイクル安打は至難の業 達成者は夏6人、春1人」
1949年の平安・杉山慎二郎から2019年の敦賀気比・杉田翔太郎まで、夏の甲子園におけるサイクル安打達成者、1975年の土佐・玉川寿が史上2人目であることを確認するため参照した。 -
SPAIA「甲子園でサイクルヒットを達成した高校野球の7人の侍」
玉川寿が3回に2点本塁打を放ち、その後に三塁打、二塁打、単打を重ねてサイクル安打を完成させた打席経過を確認するため参照した。 -
朝日・日刊スポーツ大会アーカイブ「2015年第97回全国高校野球選手権大会」
敦賀気比が1回戦で明徳義塾に4-3、2回戦で花巻東に3-8で敗れた大会結果を確認するため参照した。 -
日刊スポーツ「明徳義塾 対 敦賀気比・スコア速報」
2015年8月8日のイニングスコア、両校打者の成績、投手、本塁打、篠原涼のサヨナラ安打などの試合記録を確認するため参照した。 -
日刊スポーツ「春夏連覇へ敦賀気比が明徳にサヨナラ勝ち/詳細」
明徳義塾の初回、3回の得点経過、林中の本塁打、延長10回二死満塁から篠原がサヨナラ打を放った試合経過を確認するため参照した。 -
デイリースポーツ「敦賀気比8校目春夏連覇へサヨナラ発進」
明徳義塾の夏の初戦勝利が16で止まったこと、敦賀気比が三つの四球で延長10回二死満塁をつくり、篠原がサヨナラ打を放った経過を確認した。 -
日本高等学校野球連盟「第87回選抜高等学校野球大会」
2015年春、敦賀気比が決勝で東海大四を3-1で破り、福井県勢として初めてセンバツ優勝を果たした記録を確認するため参照した。 -
山梨県高等学校野球連盟「第100回全国高等学校野球選手権記念大会」
2018年8月6日の高知商対山梨学院のイニングスコア、高知商が14-12で勝利した大会記録を確認するため参照した。 -
Full-Count「両校計30安打26得点の壮絶な乱打戦」
高知商と山梨学院が逆転を繰り返した試合経過、高知商が12年ぶりの夏の甲子園勝利を挙げたことを確認するため参照した。
本文中の試合スコア、イニング、投手、本塁打および詳細記録は、朝日・日刊スポーツ高校野球大会アーカイブ、日刊スポーツの試合記録、日本高等学校野球連盟、山梨県高等学校野球連盟、報道資料、ならびに提供された大会記録画面を照合して作成した。「高知代表は初戦を手堅く勝つ印象がある」「センバツ後の敦賀気比に疲労が残っているように見えた」という記述は、筆者の当時の観戦記憶・所感として記している。

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