香川の甲子園初戦クロニクル|尽誠が春王者を止めた1点と、高松商に残った三十イニング

四国

初戦・故郷の白球史|49代表地区に残る、勝った夏と負けた夏
香川の甲子園初戦クロニクル|尽誠が春王者を止めた1点と、高松商に残った三十イニング

香川の高校野球を語ろうとすると、どうしても最初に高松商の名前が浮かぶ。

大正の昔から甲子園へ出て、春も夏も全国の頂点に立った。
僕らの世代にとっても、「香川代表」と聞けば、まず高松商だった。

けれど、県の高校野球史というものは、一つの学校だけでは止まらない。

1992年夏。
甲子園の初戦で、尽誠学園が春の全国王者・帝京を1-0で破った。

取った一点は、エース渡辺隆文自身の適時打。
そして、その一点を、渡辺自身が九回まで守り切った。

一方、高松商には、勝利以上に忘れにくい初戦がある。

1978年、仙台育英に延長17回、0-1。
翌1979年、明野に延長13回、4-5。

二年間で三十イニング。
二年続けて、初戦の延長サヨナラ負けだった。

勝った夏と、勝てなかった夏。
そこに残ったものを辿っていくと、香川の高校野球が、一つの名門だけでは語れない理由が見えてくる。

この記事の30秒要約

勝った初戦は、1992年の尽誠学園1-0帝京。春のセンバツ王者で夏も優勝候補筆頭だった帝京を、エース渡辺隆文が決勝適時打と完封で退けた。尽誠はそのまま全国4強まで進んだ。

負けた初戦は、1979年の高松商4-5明野。0-4から7、8、9回に追いつく古豪の執念を見せたが、延長13回にサヨナラ負け。前年1978年にも仙台育英に延長17回で敗れており、高松商は二年間の夏の初戦だけで計30イニングを戦いながら、あと一歩で勝利を逃した。

香川代表の「勝った初戦」|1992年・尽誠学園1-0帝京

春の全国王者・帝京。エースで4番の三澤興一を中心に、夏も優勝候補の筆頭だった。
その強打線を、尽誠学園の渡辺隆文と堅守が九回までゼロに封じた。決勝点を打ったのも、渡辺だった。

尽誠学園対帝京|イニングスコア

学校名 1 2 3 4 5 6 7 8 9 安打
帝京 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4
尽誠学園 0 1 0 0 0 0 0 0 x 1 6
投手

帝京:三澤
尽誠学園:渡辺

本塁打

帝京:なし
尽誠学園:なし

春の王者が、夏にも持ち込んだ圧倒的な強さ

1992年の帝京は、普通の優勝候補ではなかった。

春のセンバツで、東海大相模を3-2で破って初優勝。
エースで4番は三澤興一だった。

そして夏の東東京大会では、全6試合で二桁得点。しかも無失策。
春夏連覇へ向け、全国でも本命視されていた。

その帝京が、初戦で尽誠学園と当たった。

今なら「いきなり好カード」と言うところだろう。
尽誠も1989年夏にすでに全国4強へ進んでいた。香川の私学勢を代表する全国区の強豪になりつつあった時代である。

二回、渡辺が自分で奪った一点

試合を動かしたのは、二回だった。

尽誠学園は四球の走者を二塁へ進める。
打席に入ったのは、投手の渡辺隆文。

三澤の直球を、中前へはじき返した。

1-0。

その時点では、まさかその一点だけで試合が終わるとは思わなかっただろう。

帝京は初回、三回、五回、六回と得点圏へ走者を進めた。
六回までに三塁へ走者を置いた場面は四度あった。

だが、渡辺は崩れない。

球を左右へ散らしながら、必要なところでは内角を強気に攻める。
尽誠の内外野も、帝京の痛烈な打球を何度も処理した。

八回には三澤が中堅深くへ大きな飛球を放った。
けれど、白球はスタンドへは届かなかった。

そして九回。
スコアボードには、帝京の「0」が九つ並んだ。

尽誠学園1-0帝京|詳細記録

学校名 打数 安打 打点 二塁打 三塁打 本塁打 三振 四死球 犠打 盗塁 失策 残塁
帝京 28 4 0 1 0 0 1 5 3 0 1 9
尽誠学園 26 6 1 1 0 0 8 4 3 0 0 8

※詳細記録は、朝日・日刊スポーツ大会アーカイブの提供画面をもとに転記。得点と打点は、失策、野選などによって一致しない場合がある。

村瀬メモ|自分で取った一点を、自分で守った

帝京の前田三夫監督は後年、1992年の敗戦を振り返り、春の優勝後にチームへ「油断」や「慢心」が生まれていたことを明かしている。尽誠学園の映像を十分に分析しないまま初戦を迎えたことも、反省材料の一つだったという。

でも僕は、この試合を「帝京が油断したから負けた」だけでは終わらせたくない。

帝京は六回までに四度も三塁へ走者を進めた。それでも尽誠は一点も渡さなかった。渡辺は強気に内角を攻め、野手は強い打球を捕り続けた。相手に隙があったとしても、その隙から勝利を奪い切るには、こちら側の力が要る。

そして何より、渡辺は二回、自分で決勝点を打った。
その一点を、自分で九回まで守った。

1-0というスコアほど、エースという言葉が似合う試合も、そう多くはない。

一勝で終わらなかった尽誠、再び全国4強へ

春の王者を破っただけなら、「大番狂わせ」として語られたかもしれない。

だが、尽誠はその先も勝った。

能代に7-0。
宇都宮南に7-2。
準々決勝では広島工を5-0。

準決勝では拓大紅陵に4-5で敗れたが、全国4強。

尽誠は1989年にも夏の甲子園で4強へ進んでいた。
わずか四年間で二度のベスト4である。

高松商という巨大な歴史を持つ県に、もう一つ、全国で勝てる学校が現れていた。

香川高校野球の主役が交代した、というよりも。
僕には、香川の物語に新しい主役が一人増えた夏のように思える。

香川代表の「負けた初戦」|1979年・高松商4-5明野

五回、六回で0-4。
それでも高松商は七回から一点、二点、一点。九回に追いついた。前年に延長17回を戦った名門は、河地良一が卒業した翌夏も、簡単には終わらなかった。

明野対高松商|延長13回のイニングスコア

学校名 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 安打
高松商 0 0 0 0 0 0 1 2 1 0 0 0 0 4 13
明野 0 0 0 0 3 1 0 0 0 0 0 0 1x 5 8
投手

高松商:中尾
明野:斎藤

本塁打

高松商:なし
明野:なし

相手は、開校三年目の初出場校だった

1979年夏、高松商は甲子園へ戻ってきた。

選抜を含めれば、これで5季連続の甲子園。
春夏合わせて全国優勝4度を数える古豪である。

その初戦の相手が、茨城の明野だった。

明野高校が開校したのは1977年。
つまり、この1979年夏は、まだ学校ができて三年目だった。

甲子園も初出場。

一方は、大正時代から甲子園を知る学校。
もう一方は、校史そのものがまだ始まったばかりの学校だった。

高校野球だから生まれる、途方もない時間差の対戦である。

0-4。それでも高松商は終わらない

五回、明野が3点を奪った。

六回にも1点。

0-4。

普通なら、初出場校の勢いに押し切られても不思議ではない流れだった。

ところが、高松商はここからだった。

七回に1点。
八回に2点。

そして九回。

もう一度、1点を奪った。

4-4。

追いつかれたのではない。
追いついたのだ。

それも、0-4から。

僕は、このスコアを見直して、昔の記憶の印象が少し変わった。

敗れた試合ではある。
けれど、高松商の歴史の中で、この負けをただ「初出場校に敗れた」とだけ書いてしまうのは、あまりにも惜しい。

十回。十一回。十二回。

両校は譲らなかった。

そして十三回裏。
明野が最後の一点を奪った。

5x-4。
古豪の執念は、あと一歩のところで届かなかった。

明野5-4高松商|詳細記録

学校名 打数 安打 打点 二塁打 三塁打 本塁打 三振 四死球 犠打 盗塁 失策 残塁
高松商 47 13 3 2 1 0 11 2 3 3 2 9
明野 43 8 4 0 3 0 3 4 3 1 1 7

※詳細記録は、朝日・日刊スポーツ大会アーカイブの提供画面をもとに転記。得点と打点は、失策、野選などによって一致しない場合がある。

村瀬メモ|二年で三十イニング。それでも一勝は残らなかった

1978年、高松商は仙台育英と延長17回を戦った。
0-0のまま十六回。最後は押し出し死球で0-1。

翌1979年。
今度は明野と延長13回を戦った。0-4から追いつき、それでも最後は4-5。

17回と13回。合わせて30イニング。
二年間の夏の初戦だけで、普通の試合なら三試合以上に相当する長さを戦った。それでも、高松商には一つの勝利も残らなかった。

けれど僕は、この数字を「勝てなかった二年間」とだけ読みたくない。

0-0を十七回近く守り続けた年があり、翌年には0-4から九回に追いついた年がある。名門というのは、いつも華麗に勝つ学校のことではないのかもしれない。負ける寸前まで追い詰められても、簡単には終わらない学校。そのしぶとさが何十年も受け継がれるから、僕らはそこに「伝統」という言葉を使うのだと思う。

河地の夏から、中尾の夏へ

この二年間を並べると、もう一つの流れが見えてくる。

1978年のエースは、河地良一だった。

河地は2年生だった1977年夏にも甲子園を経験している。
翌1978年春のセンバツでは、牛島和彦―香川伸行という後にプロでも名を馳せるバッテリーを擁した浪商を3-0で破った。

そして最後の夏。
仙台育英の大久保美智男と、延長17回を投げ合った。

細身の体から、切れのあるシュート。
最後の一球が打者へ当たり、あまりにも無情な形で夏が終わった。

河地が卒業した翌年、マウンドを託されたのが中尾だった。

もちろん、1978年と1979年は別のチームである。
投手も違う。打線も違う。

それでも、前年に十七回を戦った学校が、翌年は0-4から九回に追いついて十三回まで戦った。

僕にはそこに、個人の名前を越えて受け継がれる、高松商という学校の野球が見える。

もう一つの「負けた初戦」|1978年・高松商0-1仙台育英

河地良一と大久保美智男、十七回のゼロ

1979年の明野戦を語るなら、その前年を外すことはできない。第60回大会1回戦、高松商と仙台育英は0-0のまま延長へ入った。

高松商・河地良一。仙台育英・大久保美智男。対照的な体格の右腕二人が、一つの得点も許さない。高松商9安打、仙台育英10安打。走者は出ても、本塁だけが遠かった。

十七回裏、一死満塁。仙台育英の九番・嶋田への内角球が死球となり、押し出し。1x-0。河地の長い夏は、一つの打球さえ飛ばないまま終わった。

そして翌夏の13回。二つを並べることで、高松商がどれほど長い時間、初戦の一勝を求めて戦っていたのかが見えてくる。1978年の17回と1979年の13回。だから僕は、この二年間を「三十イニングの夏」として覚えておきたい。

まとめ|一つの名門から、いくつもの物語へ

1979年、高松商は負けた。

0-4から追いつき、十三回まで戦って、それでも負けた。

その前年にも、十七回を戦って負けていた。

そして1992年。

今度は尽誠学園が、春の王者・帝京から、わずか一点を奪った。

その一点を最後まで渡さず、全国4強へ進んだ。

香川の高校野球は、高松商から尽誠へ単純に主役が交代したわけではない。

高松商は、その後も何度も甲子園へ戻ってきた。
尽誠もまた、全国で存在感を示した。

一つだった主役が、二つになった。

そして、その周りに新しい学校、新しい選手、新しい夏が加わっていく。

一人で奪って、一人で守った一点。
二年間かけても、つかめなかった一勝。

甲子園のスコアには、勝ちと負けしか残らない。
けれど、その数字の間に流れた時間まで拾い上げてみると、故郷の白球史は、急に人の顔を持ちはじめる。

僕がこの初戦シリーズで残しておきたいのは、きっと、そういう夏なのだ。

香川の甲子園初戦史|よくある質問

Q1.1992年の尽誠学園対帝京は、なぜ注目された?
A.帝京が同年春のセンバツ優勝校で、夏も春夏連覇を狙う優勝候補筆頭だったためである。尽誠学園はエース渡辺隆文の投打にわたる活躍で帝京を1-0で破り、そのまま全国4強まで勝ち進んだ。
Q2.尽誠学園の決勝点を挙げたのは誰?
A.エースの渡辺隆文である。二回、四球の走者を二塁に置き、帝京・三澤興一から中前適時打を放った。この一点が唯一の得点となり、渡辺自身が帝京を4安打完封した。
Q3.1979年の高松商対明野は、どんな試合だった?
A.高松商が五、六回に4点を先行された後、七回1点、八回2点、九回1点と追い上げ、4-4に追いついた。延長10~12回は無得点で、13回裏に明野が1点を奪い、5x-4でサヨナラ勝ちした。
Q4.明野は1979年が甲子園初出場だった?
A.初出場だった。明野高校は1977年開校で、1979年夏は開校3年目。茨城大会をノーシードから勝ち上がり、夏の甲子園初戦で歴史ある高松商を延長13回の末に破った。
Q5.高松商が「2年で30イニング」とはどういう意味?
A.1978年夏の初戦で仙台育英と延長17回を戦い0-1でサヨナラ負けし、翌1979年夏の初戦でも明野と延長13回を戦い4-5でサヨナラ負けしたためである。17回と13回を合わせると30イニングとなる。

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使用した主な情報ソース

朝日・日刊スポーツ高校野球大会アーカイブ|1992年・尽誠学園対帝京

https://smart.asahi.com/v/koshien/game/1992/400/7957/index.php

尽誠学園1-0帝京のイニングスコア、投手、渡辺隆文の決勝適時打、帝京が六回までに四度三塁へ走者を進めながら得点できなかった試合経過などを確認。

朝日・日刊スポーツ高校野球大会アーカイブ|1992年第74回全国高校野球選手権大会

https://smart.asahi.com/v/koshien/stats/summer/y1992.php

尽誠学園が帝京戦後、能代、宇都宮南、広島工を破り、準決勝で拓大紅陵に4-5で敗れて全国4強となった大会経過の確認に使用。

Number Web|帝京・前田三夫前監督が振り返る1992年の尽誠学園戦

https://number.bunshun.jp/articles/-/854286?page=2

1992年の帝京が春のセンバツ王者で、夏の東東京大会全6試合で二桁得点、無失策だったこと、前田三夫監督が後年「油断」「慢心」と対戦相手の分析不足を敗戦の教訓として振り返った内容を参照。

朝日・日刊スポーツ高校野球大会アーカイブ|1979年・明野対高松商

https://smart.asahi.com/v/koshien/game/1979/400/7328/index.php

明野5-4高松商の延長13回イニングスコア、投手、高松商が0-4から7、8、9回に追いついた経過を確認。

香川県高等学校野球連盟|讃岐球児の歩み・1979年

https://kagawa-hbf.la.coocan.jp/history/historys54.html

高松商が選抜を含め5季連続で甲子園へ出場していたこと、初出場の明野に延長13回4-5でサヨナラ負けした事実の確認に使用。

毎日新聞|明野1979年夏・創立3年目で甲子園出場

https://mainichi.jp/articles/20240601/ddl/k08/050/048000c

1979年の明野が創立3年目、ノーシードから茨城大会を勝ち上がったチームだったことなど、初出場までの背景を参照。

茨城県立明野高等学校|創立四十周年記念「明野高校野球部物語」

https://www.akeno-h.ibk.ed.jp/wysiwyg/file/download/12/86

明野高校が開校3年目で夏の甲子園出場を果たした経緯、当時「開校三年目の快挙」として大きな話題となった背景の確認に使用。

香川県高等学校野球連盟|讃岐球児の歩み・1978年

https://kagawa-hbf.la.coocan.jp/history/historys53.html

1978年春、高松商が牛島-香川のバッテリーを擁する浪商を3-0で破ったこと、夏に仙台育英と延長17回の死闘を演じたことなどを参照。

J:COM高校野球コラム|1978年夏、高松商・河地良一と仙台育英・大久保美智男

https://www2.myjcom.jp/special/tv/sports/baseball/highschool/column/detail/20210527.shtml

河地良一の投手像、仙台育英・大久保美智男との延長17回の投げ合い、押し出し死球による決着などを参照。

高校野球選手データ|河地良一

https://www.kyureki.com/player/94778/

河地良一が2年生だった1977年夏にも高松商の投手として甲子園を経験していたことを補助的に確認。

本記事は、公開されている大会記録、報道記事、学校・高野連の公開資料および朝日・日刊スポーツ大会アーカイブの記録画面を照合し、筆者の記憶と考察を加えて再構成した。試合の評価や歴史的位置づけには筆者独自の解釈を含む。選手名、学校名、記録は当時の表記を基本とした。

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