愛媛の甲子園初戦クロニクル|済美の猛打と松山商を沈めた真夏の夜

四国

初戦・故郷の白球史|49代表地区に残る、勝った夏と負けた夏

愛媛の甲子園初戦クロニクル|済美の猛打と松山商を沈めた真夏の夜

愛媛の高校野球には、二つの時間が流れている。

一つは、何十年もの歳月をかけて磨かれた時間だ。

守り、送り、走り、わずかな隙を見逃さずに一点を奪う。夏将軍・松山商が積み上げた、古い時計のように正確な野球である。

もう一つは、歴史を待たずに駆け上がった時間だ。

笑い、振り、打ち、失点しても、その上から得点を重ねていく。上甲正典監督と済美が、わずか数年で甲子園へ持ち込んだ新しい風である。

1978年、松山商は初出場の郡山北工に1-2で敗れた。

2004年、夏初出場の済美は、秋田商との乱打戦を11-8で勝ち切った。

伝統校が、名も知られていなかった学校に夏を止められた夜。

新興校が、全国区の強豪として初めて夏を歩き始めた昼。

愛媛の甲子園初戦史を語るなら、僕はこの二試合を、古い時代と新しい時代を結ぶ一本の白線として見つめたい。

愛媛の初戦には、伝統を守る夏と、伝統をつくり始める夏がある。
松山商は長い歴史を背負って敗れ、済美は歴史のない場所から勝ち上がった。

愛媛代表の初戦には「四国野球」の誇りが背負わされる

松山商、今治西、西条、新居浜商、宇和島東、済美。

愛媛には、甲子園の長い歴史と結びついた学校がいくつもある。

瀬戸内の穏やかな海とは対照的に、野球は粘り強く、抜け目がない。

送りバント、走塁、守備位置、継投、相手の癖を読む目。打球が飛ばない時間にも、試合を少しずつ自分たちの側へ引き寄せる。

僕らが「四国の野球」と呼んできたものの中心には、いつも愛媛の学校がいた。

中でも松山商は、夏の甲子園で五度の全国制覇を成し遂げた「夏将軍」である。

愛媛代表のユニホームには、ただ一県の期待だけではなく、古い四国野球の誇りまで縫い込まれていた。

ところが、初戦は歴史を敬ってはくれない。

1978年、松山商は初出場の郡山北工に敗れた。

そして四半世紀余り後、今度は創部間もない済美が、春の王者として夏の甲子園に現れた。

愛媛の代表が背負うものは同じでも、その野球の姿はまるで違っていた。

一方は、一点を守る野球。

もう一方は、失点の上から打ち返す野球。

その違いこそが、愛媛の初戦史を面白くしている。

勝った初戦|2004年、済美11-8秋田商

勝った初戦

大会
第86回全国高等学校野球選手権大会
回戦
2回戦・済美にとっての大会初戦
球場
阪神甲子園球場
対戦
済美(愛媛)11-8 秋田商(秋田)
試合結果
両校29安打の打撃戦を済美が制す
主な投手
福井優也(済美)、佐藤(秋田商)

新設校ではなく「創部3年目」の甲子園だった

ここは、記録として正確に整理しておきたい。

済美高校そのものは、2004年にできた新設校ではない。

学校の源流は1901年に始まり、一世紀を超える歴史を持つ。

ただし、長く女子教育を担ってきた済美は、2002年度から男女共学となった。

その共学化とともに生まれたのが、男子硬式野球部だった。

初代監督に招かれたのは、宇和島東を1988年春のセンバツ初出場初優勝へ導いた上甲正典。

2002年春に入学した男子1期生たちは、グラウンドの伝統も、甲子園出場の先輩もいない場所から歩き始めた。

そして1期生が3年生になった2004年春。

済美はセンバツに初出場し、そのまま全国優勝を成し遂げた。

創部3年目、甲子園初出場初優勝。

まるで物語の結末を、最初のページに書いてしまったような快進撃だった。

上甲正典が再び起こした「初出場初優勝」

上甲監督が、甲子園初出場校を春の頂点へ導いたのは、済美が初めてではない。

1988年春、宇和島東を率いてセンバツ初出場初優勝。

そして2004年春、済美でも同じ快挙を成し遂げた。

異なる二校をセンバツ初出場初優勝へ導いた指導者。

その事実だけでも、上甲正典という監督の特異さが分かる。

だが、上甲野球は、笑顔だけでできていたわけではない。

ベンチでは「上甲スマイル」が注目されたが、練習は厳しく、選手には常に一歩先の成長を求めた。

校訓は「やればできる」。

野球部の部訓は「夢叶うまで挑戦」。

それは美しい標語というより、歴史も経験もない選手たちが、自分を信じるために何度も唱えた言葉だったのだろう。

春の王者が、夏も「初出場」で現れた

春の優勝後、済美は愛媛大会を勝ち抜き、夏の甲子園にも初めて出場した。

春は初出場初優勝。

夏も初出場。

つまり済美は、史上初となる「春夏連続の初出場初優勝」を狙える場所に立っていた。

一度目の甲子園で、すでに全国の頂点へ立った学校。

二度目の甲子園では、追う立場ではない。

全国すべての学校から、春の王者として狙われる。

しかも、済美の打線には鵜久森淳志がいた。

厚い胸板から放たれる打球は、乾いた音を残して外野の頭上を越えていく。

エースには福井優也。

春の王者は、守り切るだけのチームではなかった。

失点しても、その上から打ち返す。

その夏の済美を象徴する初戦が、秋田商との11-8だった。

済美対秋田商|11-8のイニングスコア

学校名 1 2 3 4 5 6 7 8 9 安打
秋田商 1 1 0 1 0 0 3 2 0 8 15
済美 0 0 5 2 0 2 2 0 x 11 14
投手

秋田商:佐藤
済美:福井

本塁打

秋田商:なし
済美:鵜久森

先に殴ったのは、秋田商だった

試合は、春の王者が力の差を見せつける展開にはならなかった。

秋田商が初回に1点。

2回にも1点。

済美は、夏の甲子園で初めて迎えた攻撃を二度終えても、得点を奪えなかった。

スコアは0-2。

春の優勝校であっても、夏の一球目から王者でいられるわけではない。

甲子園は大会が変われば、すべてをいったん白紙に戻す。

だが、この年の済美には、二点を重く感じさせない打線があった。

「取られたなら、打って取り返せばいい」

そんな単純で、恐ろしい自信が、打席に立つ一人ひとりから漂っていた。

3回、五本の長短打で試合をひっくり返す

済美打線が目を覚ましたのは3回だった。

五本の長短打を集め、一挙5点。

0-2が、5-2へ変わった。

一人の強打者だけが打ったのではない。

前の打者が出れば、次の打者が返す。

相手投手が立て直す前に、さらに次の打者が襲いかかる。

春の甲子園を制した済美の強さは、打線が切れないことにあった。

一度火がつくと、攻撃の終わりが見えない。

秋田商の右腕・佐藤が投じる速球を、済美打線は正面から打ち返した。

打球音が重なり、アルプスの手拍子が加速していく。

春の王者は、夏も打って現れた。

鵜久森淳志の一発が、甲子園の空気を変えた

4回には、鵜久森淳志の左越え本塁打が飛び出した。

済美の四番。

相手投手が最も警戒し、スタンドが最も期待する打者。

その鵜久森が、夏の初戦で本塁打を放った。

白球が左翼スタンドへ消えた瞬間、センバツ優勝は偶然ではなかったのだと、あらためて全国へ突きつけたように見えた。

済美は4回に2点、6回に2点、7回にも2点。

得点を一度に集めるだけではなく、試合の中盤まで繰り返し相手へ圧力をかけた。

7回を終えた時点で、スコアは11-6。

だが、秋田商も引かなかった。

秋田商15安打、済美14安打――勝者より多く打った敗者

この試合の数字には、打撃戦の残酷さが表れている。

秋田商は15安打。

済美は14安打。

安打数で上回ったのは、敗れた秋田商だった。

秋田商は7回に3点、8回にも2点を奪い、済美へ迫った。

福井の変化球をとらえ、最後まで春の王者を休ませなかった。

しかし、得点は済美が11、秋田商が8。

済美は四死球を絡め、犠打も使い、得点機で一気に走者を返した。

同じ一本の安打でも、前に走者がいるか。

同じ好機でも、あと一本が出るか。

打撃戦は、安打数の多い学校が必ず勝つわけではない。

済美は、相手より一本少ない安打で、三点多く奪った。

それは豪快さだけではなく、得点へ結びつける集中力を持った打線だった証しでもある。

済美対秋田商|詳細記録

学校名 打数 安打 打点 二塁打 三塁打 本塁打 三振 四死球 犠打 盗塁 失策 残塁
秋田商 39 15 8 2 1 0 6 7 1 0 0 12
済美 34 14 11 4 0 1 8 7 3 1 2 9

※詳細記録は、朝日・日刊スポーツ大会アーカイブの提供画面をもとに転記。

済美は、秋田商を圧倒したわけではない。

十五本の安打を浴び、八点を失い、最後まで追いすがられた。

それでも、失点の恐怖より、次の得点を奪う意志が上回った。守って勝つことが愛媛野球の伝統なら、打って相手を振り切った済美は、愛媛に新しい勝ち方を持ち込んだのだと思う。

2004年の済美は、春の奇跡を夏の実力へ変えた

秋田商との打撃戦を越えた済美は、その後も勝ち進んだ。

3回戦では岩国を6-0。

準々決勝では中京大中京を2-1。

準決勝では千葉経大付を5-2で破った。

春に続き、夏も決勝へ進出。

創部3年目のチームが、同じ年の春夏で二度、甲子園決勝の土を踏んだのである。

決勝の相手は駒大苫小牧。

済美が勝てば、春夏連覇。

しかも春も夏も初出場での全国制覇という、前例のない物語が完成するところだった。

決勝もまた、打撃戦になった。

済美10点。

駒大苫小牧13点。

済美は十点を奪って敗れた。

春夏連覇には届かなかったが、その夏の印象が薄れることはなかった。

鵜久森を中心とした強力打線。

福井の力投。

上甲監督の笑顔。

そして、「やればできる」という言葉。

甲子園へ初めて出た年に、春は優勝、夏は準優勝。

歴史がないと言われたチームは、わずか数か月で、誰も忘れられない歴史をつくった。

その夏の最初の一歩が、秋田商との11-8だった。

負けた初戦|1978年、松山商1-2郡山北工

負けた初戦

大会
第60回全国高等学校野球選手権大会
回戦
1回戦
球場
阪神甲子園球場
対戦
郡山北工(福島)2-1 松山商(愛媛)
試合結果
郡山北工が7回に同点、8回にスクイズで勝ち越し
主な投手
折笠(郡山北工)、石丸(松山商)

「夏将軍」は、初戦で負ける学校ではなかった

松山商は、夏の甲子園とともに生きてきた学校である。

全国制覇は五度。

接戦であればあるほど、終盤になればなるほど、松山商が勝つ。

送りバントを決める。

走者を進める。

守備で相手の流れを断つ。

一点を守り、最後には相手より一つ多くホームを踏んでいる。

その試合運びから、「夏将軍」と呼ばれた。

1978年は、1969年の全国優勝以来、9年ぶり19回目の夏だった。

久しぶりの出場とはいえ、松山商の名に新鮮さはない。

甲子園へ帰ってくるべき学校が、帰ってきた。

多くの高校野球ファンは、そう受け止めていたはずだ。

相手は、福島県の郡山北工。

甲子園初出場。

学校としても、郡山工と郡山西工の統合校として前年の1977年に誕生したばかりだった。

片や、甲子園の歴史そのもの。

片や、校名さえ全国にはほとんど知られていない初出場校。

当時の空気を思えば、どちらが勝つと見られていたかは、説明するまでもない。

郡山北工対松山商|1-2のイニングスコア

学校名 1 2 3 4 5 6 7 8 9 安打
松山商 1 0 0 0 0 0 0 0 0 1 5
郡山北工 0 0 0 0 0 0 1 1 x 2 5
投手

松山商:石丸
郡山北工:折笠

本塁打

松山商:なし
郡山北工:なし

初回の1点で、いつもの松山商になるはずだった

松山商は初回、二番、三番の長短打で1点を先制した。

名門が初出場校を相手に、早々と先手を取る。

この時点では、多くの者が「やはり松山商」と思っただろう。

一点を先に奪い、投手が相手を抑え、終盤に追加点を加える。

夏将軍が何度も見せてきた勝ち方の入口だった。

だが、その後のスコアボードには、松山商のゼロが並んだ。

2回、ゼロ。

3回、ゼロ。

4回、ゼロ。

初回に生まれた一点は、試合を支配するための一点ではなく、最後まで守らなければならない一点へ変わっていった。

折笠の重い球に、松山商の打線が沈黙した

郡山北工のエース・折笠は、初回に失点しても崩れなかった。

重い球を低めに集め、松山商打線へ追加点を許さない。

松山商の安打は、試合を通じて5本。

三塁打を2本放ちながら、得点は初回の1点だけだった。

松山商は三振がわずか1。

バットには当たっていた。

だが、正面を突き、好機ではあと一本が出ない。

打てないというより、得点にならない。

名門が最も嫌う形で、試合は静かに終盤へ向かった。

7回同点、8回スクイズ――名門の形を初出場校が使った

6回まで、郡山北工は石丸の前に2安打。

松山商が1-0とリードしたまま、試合は7回へ入った。

郡山北工が、そこで同点に追いついた。

そして8回。

走者を三塁へ進め、八番・橋本が初球をスクイズした。

決まった。

2-1。

皮肉な場面だった。

走者を進め、スクイズで一点を奪う。

それは、本来なら松山商が最も得意としてきた野球だった。

その勝ち方を、甲子園初出場の郡山北工が、夏将軍を相手にやってのけた。

豪快な本塁打ではない。

守備を切り裂く長打でもない。

三塁走者が走り、打者がバットを寝かせ、白球が内野を転がる。

その小さな打球が、愛媛の夏を終わらせた。

カクテル光線の記憶に残った、信じられない結末

僕の記憶の中で、この試合は夕暮れの色をしている。

真夏の日差しが弱まり、甲子園の照明がグラウンドを白く浮かび上がらせる。

カクテル光線の下で、松山商の攻撃が終わっていく。

大会記録に残るのは、8月9日の第3日、第4試合。

正確な試合開始時刻や照明点灯の瞬間までは、今回の資料では確認できなかった。

それでも、当時小学生だった僕の中では、この敗北は真夏の夜の出来事として残っている。

「あの松山商が、初戦で負けた」

しかも相手は、東北の初出場校。

テレビの前で見ていた少年には、起こるはずのないことが起きたように思えた。

強い学校が勝つ。

歴史のある学校が、初出場校を退ける。

そんな単純な甲子園の地図が、一夜で塗り替えられた。

郡山北工対松山商|詳細記録

学校名 打数 安打 打点 二塁打 三塁打 本塁打 三振 四死球 犠打 盗塁 失策 残塁
松山商 29 5 1 0 2 0 1 4 2 0 1 7
郡山北工 22 5 2 1 0 0 4 1 4 1 3 1

※詳細記録は、朝日・日刊スポーツ大会アーカイブの提供画面をもとに転記。

松山商の敗北が衝撃だったのは、単に名門が初出場校に負けたからではない。

郡山北工は、守り、送り、最後はスクイズで一点を奪った。夏将軍が受け継いできた勝ち方を、初出場校が目の前で実行したのである。

伝統は、持っているだけでは勝利を保証しない。甲子園では、その日の九回で伝統を証明し直さなければならない。

郡山北工の一勝は、東北の学校に何を伝えたのか

1978年当時、東北勢は全国大会で厳しい戦いを強いられていた。

甲子園で四国の名門と当たれば、挑戦者と見られる。

相手が松山商なら、なおさらだった。

だが、郡山北工はその松山商を破った。

派手な力勝負ではない。

折笠が粘り強く投げ、守備が耐え、犠打を四つ決め、最後はスクイズで勝ち越した。

勝つために必要なことを、一つずつ積み上げた。

僕は、この一勝が、その後の東北勢躍進を直接生んだと断定するつもりはない。

歴史は、一試合だけで動くほど単純ではない。

それでも、名門・松山商を倒したという事実は、東北の球児たちへ一つの勇気を渡したはずだ。

甲子園の名前に負ける必要はない。

初出場でも、歴史がなくても、九回を自分たちの野球で戦えば勝てる。

白河の関は、まだ遠く見えていた時代である。

その時代に、福島の初出場校が夏将軍を倒した。

僕の中では、この2-1は、東北野球がやがて全国の中心へ歩いていく、その遠い予兆のように残っている。

済美と松山商|愛媛の初戦で交差した「新しさ」と「伝統」

2004年・済美

創部3年目、夏初出場。

秋田商に15安打を許しながら、14安打で11点を奪い、打撃戦を勝ち切った。

歴史のないチームが、攻め続けることで新しい愛媛野球の歴史をつくった。

1978年・松山商

9年ぶり19回目、五度の夏優勝を誇る名門。

初回に先制しながら追加点を奪えず、初出場の郡山北工に終盤の逆転を許した。

長い歴史を持つ学校が、初戦で歴史の重さに足を取られた。

済美は、歴史がなかったから大胆に戦えた。

松山商は、歴史があったからこそ、負けられない重さを背負った。

済美は八点を失っても、十一点を奪った。

松山商は一点を先制しながら、その一点を最後まで守り切れなかった。

この二試合を並べると、愛媛野球の変化が見えてくる。

一点を大切にする野球から、大量点を恐れず打ち合う野球へ。

もちろん、どちらが正しいという話ではない。

甲子園で勝つ方法は、時代と選手によって変わる。

ただ一つ変わらないのは、初戦では過去の勝利を使えないということだ。

松山商の五度の優勝も、済美の春の優勝も、夏の初戦が始まればスコアボードの外に置かれる。

九回の中で、その年の自分たちの強さを証明しなければならない。

伝統校は、歴史を背負って初戦へ立つ。
新興校は、歴史をつくるために初戦へ立つ。
だが、甲子園が両者へ与える九回は、同じ長さである。

もう一つの初戦|2013年、済美9-7三重

第95回全国高等学校野球選手権記念大会・2回戦

済美 9-7 三重

2013年8月14日・阪神甲子園球場

愛媛の「勝った初戦」には、もう一つ、済美らしい試合がある。

2013年夏の三重戦。

この年の済美は、春のセンバツ準優勝校だった。

マウンドには2年生エース・安樂智大。

甲子園の球場表示で155キロを記録し、その剛速球は大会前から全国の注目を集めていた。

だが、試合は投手戦ではなく、9-7の打撃戦になった。

済美という学校は、不思議なほど初戦で打ち合いになる。

2004年は11-8。

2013年は9-7。

失点を避けるより、その上から得点を重ねて勝つ。

それは、上甲監督が済美へ植えつけた「攻め続ける野球」の残像だったのかもしれない。

強豪県とは違う、愛媛の初戦の面白さ

大阪や神奈川の初戦には、「勝って当然」という圧力が強くのしかかる。

愛媛にも、かつてはそれに近い時代があった。

松山商が出れば勝つ。

今治西が出れば簡単には負けない。

四国の代表は試合巧者である。

そんな評価が、全国に定着していた。

しかし、愛媛編の面白さは、一つの名門だけで歴史が終わらないことにある。

松山商が築いた時代。

西条、新居浜商、今治西が挑んだ時代。

宇和島東が上甲監督と春の頂点へ立った時代。

そして済美が、創部直後から全国の中心へ躍り出た時代。

愛媛の代表は、古い名門から新しい強豪へ、白球を手渡しながら甲子園を歩いてきた。

だから愛媛の初戦には、勝敗だけではない問いがある。

この夏、故郷の歴史を背負うのは誰なのか。

伝統を守るのか。

それとも、新しい伝統をつくるのか。

初戦の九回は、その答えが最初に姿を見せる場所なのである。

まとめ|愛媛の初戦は、古い歴史と新しい歴史の受け渡しだった

2004年、済美は夏の甲子園へ初めて出場した。

学校自体は一世紀を超える歴史を持っていたが、男子硬式野球部は2002年創部。

創部3年目の春にセンバツ初出場初優勝を果たし、夏も初出場で全国の頂点を狙った。

初戦の秋田商戦は、11-8。

済美14安打、秋田商15安打。

鵜久森の本塁打が飛び、福井が八点を失いながら投げ抜き、済美は決勝まで進んだ。

1978年、松山商は9年ぶり19回目の夏を迎えた。

相手は甲子園初出場の郡山北工。

松山商は初回に先制しながら、折笠から追加点を奪えなかった。

郡山北工は7回に同点。

8回、橋本のスクイズで勝ち越した。

1-2。

夏将軍が、初出場校に初戦で敗れた。

一方は、歴史を持たない野球部が、打って勝った初戦。

一方は、長い歴史を持つ名門が、初出場校の小さなスクイズで敗れた初戦。

その二つが並ぶと、愛媛の高校野球が歩いてきた道が見えてくる。

伝統は、永遠に一校だけのものではない。

古いユニホームから、新しいユニホームへ。

守り抜く野球から、打ち勝つ野球へ。

故郷の白球は、時代ごとに違う手へ渡されていく。

甲子園の照明に浮かんだ松山商の敗北も、真夏の太陽の下で響いた済美の打球音も、同じ愛媛の歴史である。

あの夏の白球は、今も心を走り続けている。

愛媛の甲子園初戦史に関するFAQ

Q1.なぜ「勝った初戦」に2004年の済美対秋田商を選んだのか?
春のセンバツ初出場初優勝を果たした済美が、夏も初出場し、春夏連覇を目指して最初に戦った試合だからだ。秋田商に15安打を許しながら、鵜久森の本塁打を含む14安打で11点を奪った。2004年の済美を象徴する猛打と勝負強さが表れた初戦である。
Q2.済美高校は2004年に開校した新設校だったのか?
学校の源流は1901年にさかのぼり、新設校ではない。2002年度に男女共学となり、それに合わせて男子硬式野球部が創部された。2004年は男子1期生が3年生となった創部3年目で、春のセンバツ初出場初優勝、夏の甲子園初出場準優勝を記録した。
Q3.済美は2004年夏の甲子園でどこまで勝ち進んだのか?
秋田商、岩国、中京大中京、千葉経大付を破って決勝へ進出した。決勝では駒大苫小牧と打撃戦を演じ、10-13で敗れた。春夏連覇はならなかったが、春優勝、夏準優勝という成績を残した。
Q4.1978年の松山商は、どのように郡山北工に逆転されたのか?
松山商は初回に1点を先制したが、郡山北工のエース折笠から追加点を奪えなかった。郡山北工は7回に同点とし、8回に八番・橋本が初球スクイズを決めて2-1と逆転。そのまま折笠が松山商を抑え、甲子園初出場初勝利を挙げた。
Q5.なぜ松山商の初戦敗退は大きな衝撃だったのか?
松山商は当時すでに夏の全国制覇を重ね、「夏将軍」と呼ばれた名門だった。一方の郡山北工は学校創立間もない甲子園初出場校であり、東北勢が全国で苦戦していた時代でもあった。その初出場校が名門を終盤の逆転で破ったため、全国的にも大きな番狂わせとして記憶された。

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使用した主な情報ソース

記録と表記について:
本文中の試合スコア、イニング、投手、本塁打および詳細記録は、朝日・日刊スポーツ高校野球大会アーカイブ、学校公式資料、図書館公開資料、報道記事、ならびに提供された大会記録画面を照合して作成した。「カクテル光線」「真夏の夜」という描写は、筆者の当時の観戦記憶に基づく。今回確認した資料では試合開始・終了時刻までは特定できなかったため、客観的な時刻記録ではなく回想として記述している。

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