神奈川の甲子園初戦クロニクル|横浜商の開幕延長戦と東海大相模のまさか

甲子園コラム

初戦・故郷の白球史|49代表地区に残る、勝った夏と負けた夏

神奈川の甲子園初戦クロニクル|横浜商の開幕延長戦と東海大相模のまさか

甲子園の開幕日は、いつも少しだけ空気が硬い。

まだ土には誰の涙も染み込んでおらず、アルプスの応援も、どこか探るように響いている。これから始まる大会が、どんな伝説を生むのか。誰も知らない朝である。

だが、1983年の横浜商には、すでに背負っている物語があった。

神奈川県勢として初めて夏の全国大会へ出場し、県勢初勝利も記録した「Y校」。46年の空白を越えて1979年に甲子園へ帰還し、春夏連覇を果たす箕島と準決勝で2-3の死闘を演じた古豪である。

そしてマウンドには、春の決勝で池田に敗れ、最後の夏こそ全国の頂点を目指した三浦将明がいた。

開幕戦。相手は鹿児島実。

春の準優勝校が、静かに勝ち上がるための通過点になるはずだった。

ところが、夏の甲子園に「通過点」という試合は存在しない。

9回裏、三塁側アルプスの時間が止まった。

――この夏が、最初の一日で終わるかもしれない。

神奈川の白球史を語るなら、僕はまず、あの瞬間から始めたい。

神奈川代表の初戦は、挑戦ではなく「責任」から始まる。
地方大会を勝ち抜いた瞬間から、「勝って当然」という見えないユニホームまで背負わされるからだ。

神奈川代表の甲子園初戦には「勝って当然」の重圧がある

横浜商、東海大相模、横浜、桐蔭学園、桐光学園、慶応。

神奈川には、校名を聞いただけで甲子園の記憶がよみがえる学校がいくつもある。紺や縦縞のユニホームがテレビ画面に映れば、それだけで「今年も強いのだろう」と思わせる土地である。

だが、この記事の主役は有名校の羅列ではない。

見つめたいのは、その年の神奈川代表が、初めて甲子園の土を踏んだ一日だ。

地方大会でどれほど強くても、甲子園へ持ち込める得点は一つもない。激戦を勝ち抜いた年であっても、全国大会のスコアボードは0-0から始まる。

しかも、強豪県の代表は、ただ勝利を期待されるだけではない。

接戦になれば「どうした神奈川」と言われ、敗れれば「まさか」と騒がれる。相手校にとっては、全国区の神奈川代表を倒すこと自体が、大きな勲章になる。

1983年の横浜商は、その重さにのみ込まれかけながら、延長10回で夏をつないだ。

1977年の東海大相模は、その重さもろとも、宇都宮学園の勢いにのみ込まれた。

同じ神奈川代表。同じ甲子園初戦。

だが、一方は決勝へ続く一歩となり、もう一方は33年の空白を振り返るときの、忘れがたい起点となった。

勝った初戦|1983年、横浜商5-4鹿児島実

勝った初戦

大会
第65回全国高等学校野球選手権大会
回戦
1回戦・開幕戦
球場
阪神甲子園球場
対戦
横浜商(神奈川)5-4 鹿児島実(鹿児島)
試合結果
延長10回、横浜商が勝利
主な投手
三浦将明(横浜商)、竹之内(鹿児島実)

Y校の二文字には、六十年の時間が流れていた

横浜市立横浜商業高等学校。通称、Y校。

僕らの世代にとって、この呼び名には、校名以上の温度がある。

横浜商は1923年、第9回大会で神奈川県勢として初めて夏の全国大会へ出場した。当時の舞台は、まだ甲子園ではなく鳴尾球場だった。

1933年の第19回大会では、佐賀師範を6-2で破り、神奈川県勢に夏の全国大会初勝利をもたらした。

神奈川の甲子園史を一冊の古いアルバムにたとえるなら、その最初のページ近くには、青い「Y」の文字が残っている。

ところが、その後のY校は夏の甲子園から遠ざかった。

再び姿を見せたのは1979年。じつに46年ぶりだった。

長い沈黙を破ったチームは、「ジャンボ宮城」こと宮城弘明を擁してベスト4へ進出する。準決勝では、その年に史上3校目の春夏連覇を成し遂げる箕島と対戦し、2-3で惜敗した。

負けはした。だが、古い時計が再び動き始めたような夏だった。

オールドファンの胸に眠っていたY校の青が、灼熱の甲子園で鮮やかによみがえったのである。

春の忘れ物を取りに来た三浦将明

その4年後、Y校史上最強とも呼ばれるチームが現れた。

中心にいたのが、長身右腕・三浦将明だった。

三浦は2年生の春から甲子園のマウンドに立ち、早稲田実などを相手に経験を積んだ。最上級生となった1983年春には、横浜商をセンバツ決勝へ導く。

だが、決勝で立ちはだかったのは、やまびこ打線を擁する池田だった。

スコアは0-3。

全国の頂点まで、あと一試合。春の紫紺の大旗は、徳島へ渡った。

だから、三浦にとって最後の夏は、ただ甲子園へ出場するための夏ではなかった。

打倒・池田。

春に置いてきた一勝を、夏に取り戻す。その思いを胸に、Y校は第65回大会へ乗り込んだ。

そして、開幕戦から登場した。

横浜商対鹿児島実|延長10回のイニングスコア

学校名 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 安打
横浜商 4 0 0 0 0 0 0 0 0 1 5 10
鹿児島実 0 0 0 0 0 1 0 0 3 0 4 7
投手

横浜商:三浦
鹿児島実:竹之内

本塁打

横浜商:なし
鹿児島実:なし

初回の4点が「安全」に見えた時間

横浜商は初回、一挙4点を奪った。

開幕戦の緊張を振り払うには、これ以上ない立ち上がりだった。

三浦も5回まで鹿児島実に得点を許さない。春の準優勝校が、経験と地力の差を静かに見せつけているように映った。

スコアボードには、横浜商の「4」と、その後に並ぶゼロ。

淡々と進む試合。

だが、そのゼロは、横浜商が完全に試合を支配していた証しであると同時に、追加点を奪えないまま時間だけが過ぎている証しでもあった。

甲子園では、点差より怖いものがある。

相手に「まだ届く」と思わせる時間である。

鹿児島実は6回に1点を返した。それでも横浜商のリードは3点。9回裏を迎えたとき、多くの者が、このまま試合は終わると思ったはずだ。

僕も、きっとそう見ていただろう。

だが、夏の初戦は、ときに九回二死から別の顔を見せる。

9回裏、3点のリードが消えた

鹿児島実が、9回裏に3点を奪った。

4-1が、4-4になった。

初回から八つのイニングをかけて守ってきたリードが、最後の攻撃で消えたのである。

一打が出れば、逆転サヨナラ。

春の準優勝校も、神奈川の古豪も、三浦将明の最後の夏も、その肩書は一球の前では何の防具にもならない。

甲子園のスタンドは、追いついた側の熱気に包まれる。応援の音が膨らみ、守る側の選手には、グラウンドが急に狭く感じられる。

三浦は、その空気の中で踏みとどまった。

逆転の一本だけは許さなかった。

試合は延長10回へ入った。

延長10回の1点が、決勝までの道を開いた

横浜商は10回表、1点を勝ち越した。

派手な大量点ではない。

だが、9回裏に夏を失いかけたチームにとって、その1点は、初回の4点よりも重かった。

10回裏、三浦は鹿児島実を無得点に抑えた。

5-4。

開幕戦終了。

三浦は延長10回を一人で投げ抜き、横浜商は、薄氷の上からどうにか夏を拾い上げた。

この試合でY校が証明したのは、圧倒的な強さではない。

崩れかけても、最後の一線だけは越えさせない粘りだった。

それこそが、横浜商らしさだったように思う。

横浜商対鹿児島実|詳細記録

学校名 打数 安打 打点 二塁打 三塁打 本塁打 三振 四死球 犠打 盗塁 失策 残塁
横浜商 36 10 5 0 3 0 3 7 3 2 1 11
鹿児島実 36 7 1 0 0 0 6 1 0 6 1 3

※詳細記録は、朝日・日刊スポーツ大会アーカイブの提供画面をもとに転記。得点と打点は、失策や野選などによって一致しない場合がある。

横浜商は、鹿児島実戦で強さを証明したのではない。

強いチームでも、初戦では足元をすくわれる。その怖さを知り、それでも踏みとどまった。

夏の準優勝は、決勝戦から逆算して生まれたものではない。9回裏に追いつかれ、一歩間違えば消えていた開幕戦の延長10回から始まっていたのだと、僕は思う。

三浦将明の一度きりの夏は、池田からKKへつながった

開幕戦を越えた横浜商は、その後も勝ち進み、決勝までたどり着いた。

三浦にとって、夏の甲子園出場はこの一度だけだった。

だからこそ、一試合ごとに最後の夏が延びていった。

だが、三浦が待ち望んでいた相手は、決勝へ来なかった。

春の王者・池田は、夏の準決勝でPL学園に敗れた。

池田を倒したPLのマウンドには、まだ1年生の桑田真澄がいた。四番には、同じく1年生の清原和博が座っていた。

やまびこ打線の時代が終わろうとするその場所から、KKの時代が姿を現したのである。

横浜商が決勝で向き合ったのは、春の忘れ物を置いてきた池田ではなかった。

これから甲子園の風景そのものを変えていく、二人の少年だった。

清原は三浦から本塁打を放った。

横浜商打線は桑田から得点を奪えず、0-3で敗れた。奇しくも、春の池田戦と同じスコアだった。

三浦の最後の夏は、打倒池田の物語にはならなかった。

その代わり彼は、池田の時代が終わり、KKの時代が始まる境目のマウンドに立った。

1983年の横浜商は、春に池田と戦い、夏に桑田・清原のPLと戦った。

昭和甲子園史の二つの巨大な物語を、その細い一本の道でつないだ学校だった。

だから、鹿児島実との開幕戦でつないだ一日は、単なる一回戦突破ではない。

その先には、甲子園の時代が入れ替わる決勝戦が待っていたのである。

負けた初戦|1977年、東海大相模0-10宇都宮学園

負けた初戦

大会
第59回全国高等学校野球選手権大会
回戦
1回戦
球場
阪神甲子園球場
対戦
宇都宮学園(栃木)10-0 東海大相模(神奈川)
試合結果
東海大相模が4安打完封負け
主な投手
見形(宇都宮学園)、西―佐藤(東海大相模)

「今年も相模だ」と思わせた黄金時代

1970年代の東海大相模には、神奈川代表の席を毎年予約しているような強さがあった。

名将・原貢監督のもと、1970年夏に全国制覇。

その後も、全国に名を知られる強打者と好投手が次々に現れた。原辰徳、津末英明らを擁したチームは甲子園の話題をさらい、東海大相模の縦縞は強豪校の象徴になった。

1977年も、4年連続7回目の夏の甲子園出場だった。

当時の少年だった僕の目には、神奈川代表の欄に東海大相模の名前が最初から印刷されているようにさえ映った。

それほど、相模が甲子園にいることは自然だった。

だからこそ、その敗北は衝撃だった。

しかも、接戦ではない。

0-10。

あの東海大相模が、甲子園初戦で十点差の完封負けを喫したのである。

宇都宮学園対東海大相模|0-10のイニングスコア

学校名 1 2 3 4 5 6 7 8 9 安打
宇都宮学園 0 0 1 0 6 2 0 1 0 10 13
東海大相模 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4
投手

宇都宮学園:見形
東海大相模:西 → 佐藤

本塁打

宇都宮学園:見形(満塁)
東海大相模:なし

相手エースが投げ、打ち、試合を支配した

宇都宮学園のエースは、見形。

投手であり、四番打者でもあった。

宇都宮学園は3回に1点を先制した。そして5回、試合の景色を一変させる。

見形の満塁本塁打などで、一挙6点。

スコアは7-0となった。

エースがマウンドで相模打線を封じ、自らのバットで試合を決める。

強豪校を倒すときに起こる、すべての勢いが宇都宮学園側へ流れていた。

東海大相模は6回にも2点、8回にも1点を失った。

打線は見形の前に4安打。9三振を奪われ、最後までホームを踏めなかった。

記録を見ると、東海大相模には4失策が残っている。

一つのミス、一つの不運で敗れた試合ではない。投打だけでなく、守りのリズムまで崩され、試合全体を相手に握られた敗北だった。

白い打球が外野へ伸びたとき、僕がテレビの前で信じられなかったのは、満塁本塁打そのものではない。

あの東海大相模が、甲子園の初戦で、為すすべなく試合を失っていく光景だった。

宇都宮学園対東海大相模|詳細記録

学校名 打数 安打 打点 二塁打 三塁打 本塁打 三振 四死球 犠打 盗塁 失策 残塁
宇都宮学園 39 13 8 2 1 1 3 6 1 3 1 9
東海大相模 30 4 0 0 0 0 9 4 1 1 4 8

※詳細記録は、朝日・日刊スポーツ大会アーカイブの提供画面をもとに転記。

あの相模が、夏の甲子園から姿を消した

0-10は、一試合の敗北である。

この敗戦が、その後の歴史を直接決めたわけではない。

だが、結果として東海大相模は、この1977年を最後に、長く夏の甲子園から姿を消すことになる。

次に神奈川大会を制したのは2010年。

33年ぶり、8回目の夏。

あれほど毎年のように甲子園へ現れていた相模が、昭和の終わりを越え、平成の時代に入っても、夏だけは戻ってこなかった。

もちろん、その間もセンバツには出場し、2000年春には全国制覇を果たしている。

それでも、「夏の相模」は遠かった。

横浜、桐蔭学園、横浜商、法政二、桐光学園、横浜商大など、神奈川の頂点を巡る争いは熾烈を極めた。名門であることと、夏の代表になれることは、まったく別の話だった。

2010年、門馬敬治監督のもとで東海大相模は、ようやく夏の甲子園へ帰ってきた。

アグレッシブ・ベースボールを掲げ、攻め続ける常勝軍団へと生まれ変わった相模は、その年、決勝まで進出する。

長い空白を知れば知るほど、1977年の0-10は、単なる大敗の数字ではなくなる。

そのゼロの中に、その後の三十三年まで吸い込まれているように見えるからだ。

0-10という数字は、一試合の結果にすぎない。

だが、当時を知る者の記憶では、そのゼロの中に、その後の長い空白まで重なっている。

強豪校の敗北は、試合終了のサイレンだけでは終わらないことがある。勝つことを期待された学校ほど、その残響は長く故郷に残る。

横浜商と東海大相模|初戦の明暗を分けた一線

横浜商の初戦

9回裏に3点差を追いつかれた。

流れは完全に鹿児島実へ傾いたが、逆転の一本だけは許さず、延長10回に勝ち越した。

夏を失いかけた場所から、決勝まで歩き続けた。

東海大相模の初戦

5回の6失点で試合の一線を越えられた。

相手エースの投球と満塁本塁打に圧倒され、攻守のリズムを取り戻せなかった。

その後、夏の甲子園復帰まで33年を要した。

二試合の違いは、単に5-4と0-10の差ではない。

横浜商も、9回裏には敗戦の淵に立っていた。一打が出れば、東海大相模と同じ「負けた初戦」の側へ回っていた。

初戦には、目に見えない一線がある。

追いつかれても、逆転だけは許さない。

失点しても、次の一点を渡さない。

重圧で体が動かなくなっても、最後のアウトまで試合から離れない。

横浜商は、その一線で踏みとどまった。

東海大相模は、見形の満塁本塁打を境に、一気に向こう側へ押し流された。

地方大会で何試合勝っていても、甲子園へ持ち込める貯金はない。

強豪校の名札も、過去の優勝旗も、初戦の一球を軽くはしてくれない。

むしろ、それらは時として、一球をさらに重くする。

甲子園の初戦では、強豪県も新興県も同じ0-0から始まる。
ただし強豪県の代表には、スコアボードに映らない「勝って当然」の一点が、最初から背負わされている。

もう一つの初戦|2012年、松井裕樹が22個の三振で現れた

第94回全国高等学校野球選手権大会・1回戦

桐光学園 7-0 今治西

2012年8月9日・阪神甲子園球場

神奈川の初戦史には、もう一つ、どうしても残しておきたい試合がある。

2012年8月9日。桐光学園の2年生左腕・松井裕樹が、今治西を相手に22個の三振を奪った。

10者連続奪三振を含む、毎回の22奪三振。

被安打はわずか2。スコアは7-0。

しかも松井は、投げるだけではなかった。自ら本塁打も放った。

高校野球ファンの多くは、この試合が始まるまで、松井裕樹という左腕の名を、全国的な大スターとしては知らなかったはずだ。

だが、九回が終わったとき、その名は甲子園の歴史に刻まれていた。

横浜商の初戦が「崖っぷちから夏をつないだ試合」なら、東海大相模の初戦は「名門が初戦の怖さにのみ込まれた試合」。

そして桐光学園の初戦は、一人の高校生が、わずか九回で全国区のスターになった試合だった。

初戦は、その夏の入口である。

同時に、まだ名も知られていない少年が、伝説へ踏み出す扉でもある。

強豪県の初戦と、故郷が待ち続けた初戦

このシリーズを大阪、神奈川という強豪地域から始めて、あらためて感じたことがある。

強豪県は、初戦敗退そのものが少ない。

反対に、初戦を勝つときも、圧倒的な戦力で危なげなく通過する試合が多い。

だから、強豪県の初戦史で強く残るのは、どうしても「まさかの敗戦」や「優勝候補が苦しんだ試合」になる。

横浜商の5-4は、勝利ではあるが、薄氷の勝利だった。

東海大相模の0-10は、強豪県だからこそ「まさか」という言葉がついて回る。

だが、これから別の故郷を訪ねれば、まったく異なる初戦が現れるだろう。

県勢何十年ぶりの一勝。

あと一人まで迫りながら、初勝利を逃した試合。

大差で敗れても、甲子園へ来たこと自体が町の誇りになった夏。

強豪県には、負けられない初戦がある。

一方で、長く勝利から遠ざかった地域には、故郷全体が何十年も待ち続けた初戦がある。

同じ一回戦でも、背負っている時間は違う。

その違いまで拾い集めてこそ、「故郷の白球史」になるのだと僕は思う。

まとめ|神奈川の初戦には、名門の責任と夏の怖さが刻まれている

1983年、横浜商は鹿児島実との開幕戦で、初回に4点を奪いながら、9回裏に追いつかれた。

一打逆転サヨナラの危機をしのぎ、延長10回に1点を勝ち越して、5-4で勝った。

その一勝は、三浦将明の最後の夏を決勝まで運び、池田の時代からKKの時代へと移り変わる甲子園史の境目へ、Y校を連れていった。

1977年、東海大相模は宇都宮学園の見形に、投げても打っても圧倒された。

4安打完封。満塁本塁打。0-10。

その後、東海大相模が夏の甲子園へ戻るまで、33年の歳月が流れた。

そして2012年には、桐光学園の松井裕樹が初戦で22個の三振を奪い、一夜にして甲子園のスターになった。

初戦は、単なる大会の入口ではない。

ある学校にとっては、決勝へ続く命綱になる。

ある学校にとっては、長い空白の始まりとして記憶される。

また、ある少年にとっては、伝説の第一章になる。

灼熱の甲子園の土は、勝った者だけを覚えているわけではない。

あと一球で夏を失いかけた者も、十点差のスコアを見上げた者も、初めて全国に名を告げた者も、その汗を同じように吸い込んできた。

あの夏の白球は、今も心を走り続けている。

神奈川の甲子園初戦史に関するFAQ

Q1.なぜ「勝った初戦」に1983年の横浜商対鹿児島実を選んだのか?
春の準優勝校・横浜商が、開幕戦で初回に4点を先行しながら、9回裏に追いつかれ、延長10回で5-4と勝った試合だからだ。横浜商はこの一勝から決勝まで進み、三浦将明は桑田真澄・清原和博の1年生KKコンビを擁するPL学園と対戦した。初戦の危うさと、大会全体へ続く物語性を併せ持つ一戦である。

Q2.横浜商は鹿児島実戦で、どのように追いつかれたのか?
横浜商は初回に4点を先制した。鹿児島実は6回に1点を返し、9回裏に3点を奪って4-4とした。横浜商は延長10回表に1点を勝ち越し、三浦が10回裏を無失点に抑えて5-4で勝利した。

Q3.1977年の東海大相模は、なぜ宇都宮学園に0-10で敗れたのか?
宇都宮学園のエース兼四番・見形に、投打で試合を支配された。見形は東海大相模打線を4安打に抑えて完封し、自ら満塁本塁打も放った。宇都宮学園は13安打を記録し、東海大相模には4失策が残った。投打だけでなく、守備のリズムまで崩された敗戦だった。

Q4.東海大相模が次に夏の甲子園へ出場したのはいつか?
2010年の第92回大会である。1977年以来、33年ぶり8回目の出場だった。門馬敬治監督のもとで神奈川大会を勝ち抜き、全国大会でも決勝へ進出した。

Q5.松井裕樹が22奪三振を記録した試合はいつか?
2012年8月9日、第94回全国高等学校野球選手権大会1回戦の桐光学園対今治西である。松井は10者連続を含む毎回22奪三振、2安打完封を記録し、桐光学園が7-0で勝利した。

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使用した主な情報ソース

記録と表記について:
本文中の試合スコア、イニング、投手、本塁打および詳細記録は、朝日・日刊スポーツ高校野球大会アーカイブ、学校・高野連資料、報道記事、ならびに提供された大会記録画面を照合して作成した。学校名は当時の大会表記を基本とし、現在の校名と異なる場合がある。選手の肩書や所属などは、記事・資料掲載当時のものとなる。

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