秋田の高校野球史は、全国大会の歴史そのものと、ほとんど同じ場所から始まっている。
1915年。
第1回全国中等学校優勝野球大会で、秋田中――現在の秋田高校は決勝まで進んだ。
相手は京都二中。
延長13回、1-2。
優勝旗には届かなかった。
けれど、第1回大会の準優勝校として「秋田」の名前は、高校野球の最初のページに刻まれた。
そんな県の「初戦」を二つだけ選ぶとしたら、僕はどちらも、点差以上に長い時間が流れている試合を選びたい。
勝った初戦は、1991年の秋田高校。
北嵯峨に追いつかれながら、九回裏に4x-3でサヨナラ勝ちした。
そして負けた初戦は、1978年の能代。
あの独特のフォームで全国を驚かせた高松直志が、箕島をわずか3安打に抑えながら0-1で敗れた試合である。
一方は、長く待った一勝。
もう一方は、たった一点に泣いた敗戦。
秋田の初戦史には、「あと少し」のところにこそ残る物語がある。
勝った初戦は、1991年の秋田4x-3北嵯峨。京都大会を無失点で勝ち上がった細見和史から得点を奪い、九回に追いつかれながらその裏にサヨナラ。秋田県勢にとって26年ぶりの夏の白星となった。次戦では、この年に初出場初優勝する大阪桐蔭を九回二死まで追い詰めている。
負けた初戦は、1978年の能代0-1箕島。能代・高松直志は大きく足を上げる独特のフォームと快速球で、翌年春夏連覇する箕島の前身チームを3安打1点に封じた。能代もわずか2安打。唯一の得点は初回のスクイズだった。
秋田代表の「勝った初戦」|1991年・秋田4x-3北嵯峨
それでも秋田は、その裏にもう一度走者を進め、最後は相手守備の乱れの間に決勝走者が生還。第1回大会準優勝校の流れをくむ古豪が、長く待った白星をつかんだ。
秋田対北嵯峨|イニングスコア
| 学校名 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | 安打 |
| 北嵯峨 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 3 | 8 |
| 秋田 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 1x | 4 | 8 |
|
投手
北嵯峨:細見 |
本塁打
北嵯峨:なし |
第1回大会準優勝校に、長く遠かった一勝
秋田高校の前身・秋田中が第1回全国大会の決勝を戦ったのは1915年だった。
京都二中との決勝は延長13回。
1-2で敗れたが、全国大会の歴史が始まったその年に、秋田は最後の二校まで残っている。
その秋田が、1991年夏に8年ぶりに甲子園へ戻ってきた。
初戦は2回戦。
相手は京都の北嵯峨だった。
また京都だった、と言いたくなる。
もちろん1915年と1991年をそのまま一本の線で結ぶことはできない。時代も学校も選手も、何もかも違う。
それでも、高校野球の歴史を振り返っていると、こういう巡り合わせに少し立ち止まりたくなる。
京都大会無失点の細見から、五回に2点
北嵯峨のエースは細見和史。
この夏、京都大会を無失点で勝ち上がってきた好投手だった。
ところが五回裏、秋田が2点を奪う。
細見にとって、この夏初めて許した失点だった。
北嵯峨も六回に2点を返し、2-2。
秋田は七回にもう一度1点を勝ち越す。
3-2。
そのまま九回まで来た。
だが北嵯峨は終わらない。
九回表に1点を返し、3-3。
勝利がいったん手元から離れたように見えた。
それでも九回裏、秋田は走者を進めた。
そして最後は相手守備の乱れの間に決勝走者が生還。
4x-3。
秋田県勢にとって、26年ぶりとなる夏の甲子園の勝利だった。
秋田4-3北嵯峨|詳細記録
| 学校名 | 打数 | 安打 | 打点 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 三振 | 四死球 | 犠打 | 盗塁 | 失策 | 残塁 |
| 北嵯峨 | 33 | 8 | 3 | 1 | 1 | 0 | 9 | 3 | 2 | 2 | 2 | 8 |
| 秋田 | 31 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 1 | 1 | 1 | 7 |
※詳細記録は、朝日・日刊スポーツ大会アーカイブの提供画面をもとに転記。得点と打点は、失策、野選などによって一致しない場合がある。
北嵯峨を破った秋田の次の相手は、初出場の大阪桐蔭だった。
秋田は初回に3点を先制する。投げる菅原朗も強力打線を抑え、八回を終えて3-1。
九回。二死、走者なし。
あと一人だった。
ところが大阪桐蔭は、そこから下位打線を起点に4連打。3-3に追いついた。延長十回裏には、秋田がサヨナラ勝ちかと思わせる場面まで作ったが、本塁で走者がアウトになる。
十一回、沢村通が決勝本塁打。この一打で沢村はサイクル安打を完成させ、大阪桐蔭が4-3で勝った。
その大阪桐蔭は、帝京、星稜、沖縄水産を破って初出場初優勝する。
だから僕には、秋田の1991年は「北嵯峨に勝った夏」だけでは終わらない。
優勝校を、九回二死まで追い詰めた夏。
勝った初戦の先に、もう一つの忘れられない試合が続いていた。
秋田代表の「負けた初戦」|1978年・能代0-1箕島
両校合わせて、わずか5安打。得点は初回のスクイズによる1点だけだった。能代・高松直志は二回以降を無失点、四回から八回までは一人の走者も許さなかった。
箕島対能代|イニングスコア
| 学校名 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | 安打 |
| 能代 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
| 箕島 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | x | 1 | 3 |
|
投手
能代:高松 |
本塁打
能代:なし |
星飛雄馬のように、右足を空へ上げた投手
僕らの世代で、高松直志の名前を聞いて最初に浮かぶのは、やはりあのフォームだと思う。
右足を、驚くほど高く上げる。
両手も頭上へ伸びる。
まるで『巨人の星』の星飛雄馬が、そのまま甲子園のマウンドへ出てきたようなシルエットだった。
日刊スポーツの後年の取材によれば、高松は身長176センチ。
それより高い位置まで右足を上げ、さらに両手を天へ突き上げるような投球動作だったという。
しかも、そのフォームは最初から完成していたものではなかった。
2年生だった1977年夏。
能代は甲子園初戦で高崎商に2-10と敗れた。
その後、太田監督から「もう少し足を上げてみたらどうか」と勧められた。
高松はバランスを取るために手も高く上げるようになり、自身の感覚では球速も上がったという。
そして3年の夏。
あのフォームを引っ提げて、高松はもう一度甲子園へ戻ってきた。
相手は、翌年春夏連覇する箕島の前夜だった
初戦の相手は箕島。
1978年の時点で、すでに全国屈指の強豪だった。
そして、このチームの中には、翌1979年に春夏連覇を成し遂げる中心選手たちがいた。
投手・石井毅。
捕手・嶋田宗彦。
この二人は、1978年夏にはまだ2年生だった。
翌年になると、上野山善久、北野、上野らとともに、あの箕島の春夏連覇を形づくっていく。
だが、この日の高松は、その箕島打線をほとんど打たせなかった。
初回のスクイズ。それが最後まで消えなかった
試合が動いたのは、一回裏だった。
箕島は無死一、三塁の形を作る。
打席には3番・石井雅博。
尾藤公監督は、ここでスクイズを選んだ。
成功。
1-0。
結果から見れば、この一点がすべてだった。
高松は二回以降、箕島に一点も与えなかった。
さらに四回から八回までは、完全投球。
スコアを見直すと、今でも驚く。
能代、2安打。
箕島、3安打。
両校合わせて5安打。
九回を戦って、得点は一回裏のスクイズによる一点だけ。
0-1。
高松はほとんど何もさせなかったのに、甲子園から消えた。
箕島1-0能代|詳細記録
| 学校名 | 打数 | 安打 | 打点 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 三振 | 四死球 | 犠打 | 盗塁 | 失策 | 残塁 |
| 能代 | 26 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 7 | 5 | 1 | 1 | 0 | 5 |
| 箕島 | 25 | 3 | 1 | 0 | 1 | 0 | 8 | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 |
※詳細記録は、朝日・日刊スポーツ大会アーカイブの提供画面をもとに転記。得点と打点は、失策、野選などによって一致しない場合がある。
今、この記録を見ても不思議な感覚になる。
能代2安打。箕島3安打。
両校合わせて5安打。
得点は、初回のスクイズによる一点だけだった。
今の僕の目には、これだけで試合全体が張り詰めて見える。どちらかが一つ進塁する。一本の犠打を決める。守備で一つアウトを取る。その小さな出来事一つ一つが、九回の最後まで消えない。
高松は二回以降ゼロを並べた。四回から八回までは完全だった。
それでも、一回に渡した一点だけは取り返せなかった。
ほとんど完璧に投げても、0-1は敗戦になる。
だからこそ、僕にはこの試合が高松直志という投手を一番よく表しているように思える。
翌年、箕島は春夏連覇へ向かった
1978年の箕島は、このあと広島工を破り、3回戦で中京に4-5で敗れた。
そして翌1979年。
石井毅―嶋田宗彦のバッテリーを中心とした箕島は、春のセンバツを制する。
夏にも勝ち進み、星稜との延長18回、池田との決勝を経て全国制覇。
春夏連覇を成し遂げた。
そう考えると、1978年の能代戦は「翌年の王者」と高松直志が出会った試合でもあった。
その相手から奪われたのは、たった一つのスクイズの一点だった。
【番外編】2011年――長いトンネルを抜けた能代商
秋田の「勝った初戦」を一試合だけ選ぶというこのシリーズのルール上、本編には1991年の秋田高校を選んだ。
けれど、2011年の能代商も、秋田の初戦史から消すことはできない。
秋田県勢は1998年から夏の甲子園で13大会連続初戦敗退。その長いトンネルを、能代商が神村学園への逆転勝ちで止めた。
前年、能代商自身は鹿児島実に0-15で大敗していた。しかも翌年の初戦相手も鹿児島代表。その悔しさを抱えて一年を過ごし、六回に4点を奪って試合をひっくり返した。
一つ勝つまでが長かった。
そして一つ勝つと、能代商は次戦にも勝った。
この一勝もまた、「秋田が甲子園で勝つ」ということの重さを教えてくれる試合だった。
まとめ|秋田の初戦には、「あと一つ」の時間が流れている
1915年。
秋田中は、第1回全国大会の決勝で延長13回まで戦って敗れた。
1978年。
能代の高松直志は、箕島を3安打1点に抑えながら0-1で敗れた。
1991年。
秋田は北嵯峨にサヨナラ勝ちし、長く待った一勝を手にした。
そして、その次の試合では初出場初優勝する大阪桐蔭を、九回二死まで追い詰めた。
2011年には、能代商が13大会続いた県勢の初戦敗退を止めた。
こうして並べてみると、秋田の甲子園史にはいつも、長い時間がある。
あと一人。
あと一点。
あと一勝。
その「あと一つ」が遠いからこそ、届いた一勝は何十年経っても大きく見える。
そして届かなかった0-1もまた、勝利と同じくらい鮮明に残る。
僕が初戦を振り返るたびに拾いたくなるのは、たぶん、そういう数字の向こう側に流れた時間なのだ。
秋田の甲子園初戦史|よくある質問
関連記事
使用した主な情報ソース
朝日・日刊スポーツ高校野球大会アーカイブ|1915年・京都二中対秋田中
https://smart.asahi.com/v/koshien/game/1915/400/5878/index.php
第1回大会決勝が延長13回、京都二中2-1秋田中だったことを確認。
朝日・日刊スポーツ高校野球大会アーカイブ|1991年・秋田対北嵯峨
https://smart.asahi.com/v/koshien/game/1991/400/7917/index.php
秋田4-3北嵯峨のイニングスコア、投手などを確認。
朝日・日刊スポーツ高校野球大会アーカイブ|1991年・大阪桐蔭対秋田
https://smart.asahi.com/v/koshien/game/1991/400/7935/index.php
大阪桐蔭4-3秋田の延長11回のイニングスコア、本塁打などを確認。
4years.|大阪桐蔭の甲子園初優勝と今は「別物」 当時のメンバー、東洋大学・井上大監督(上)
https://4years.asahi.com/article/14883898
秋田戦で大阪桐蔭が九回二死走者なしから4連打で追いつき、延長11回に沢村の本塁打で逆転した試合経過を参照。
朝日・日刊スポーツ高校野球大会アーカイブ|1978年・箕島対能代
https://smart.asahi.com/v/koshien/game/1978/400/7288/index.php
箕島1-0能代のイニングスコア、投手などを確認。
日刊スポーツ「甲子園100年物語」|身長より高く上げた右足に天突く両手
https://www.nikkansports.com/baseball/column/tohoku-koshien100/news/1480453.html
能代・高松直志の投球フォームが生まれた経緯、箕島戦の初回スクイズ、二回以降無失点、四~八回の完全投球などを参照。
高校野球資料館|1978年・1979年の箕島主要選手
https://www5c.biglobe.ne.jp/~mori95/khb/kh1978.htm
https://www5c.biglobe.ne.jp/~mori95/khb/kh1979.htm
1978年の石井毅、嶋田宗彦が2年生だったこと、翌1979年の春夏連覇チームの主要選手確認に補助的に使用。
日刊スポーツ|能代商が秋田勢連敗止めた/夏の甲子園
https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/f-bb-tp3-20110809-817825.html
2011年に能代商が1998年から続いた秋田県勢の13大会連続初戦敗退を止めたこと、前年の0-15敗戦からの経緯などを確認。

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