茨城の甲子園初戦クロニクル|あと一人から、49年

甲子園コラム

初戦・故郷の白球史|49代表地区に残る、勝った夏と負けた夏
茨城の甲子園初戦クロニクル|あと一人から、49年

1974年8月12日。

夏の甲子園に初めてやって来た土浦日大は、東海大相模を相手に2-1とリードして九回裏を迎えていた。

二死。

走者なし。

あと一人だった。

あと一つアウトを取れば、土浦日大に夏の甲子園初勝利が生まれる。

だが、その一つが取れなかった。

安打。

盗塁。

そして同点打。

試合は延長へ入った。

十回。

十一回。

十二回。

それでも終わらない。

工藤一彦は投げ続けた。

そして十六回裏。

2-3。

サヨナラ負け。

その日、工藤が投げた球は263球に達した。

それから49年。

2023年8月6日。

第105回大会の開幕戦。

甲子園にいたのは、また土浦日大だった。

相手は上田西。

2-2。

九回で終わらない。

延長十回。

今度はタイブレークだった。

そして今度は、土浦日大が一挙6点を奪った。

1974年、延長戦は夏を終わらせた。
2023年、延長戦は新しい夏を始めた。

同じ学校の二つの初戦の間に、49年という時間が流れている。

この記事の30秒要約

勝った初戦は、2023年の土浦日大8-3上田西。第105回大会の開幕戦は9回まで2-2。大会史上初となる開幕戦での延長タイブレークに入り、土浦日大が10回表に代打・飯田の勝ち越し打を皮切りに一挙6点を奪った。1986年以来37年ぶりの甲子園勝利を挙げると、そのまま学校史上初のベスト4まで進んだ。

負けた初戦は、1974年の土浦日大2-3東海大相模。夏初出場の土浦日大は、「関東三羽烏」の一人と呼ばれた工藤一彦が力投。1年生・原辰徳の適時打で先制されながら逆転し、9回裏二死走者なしまで2-1とリードした。しかしそこから追いつかれ、延長16回にサヨナラ負け。工藤は263球を投げ抜いた。

茨城代表の「勝った初戦」|2023年・土浦日大8-3上田西

第105回大会の開幕戦。9回まで2-2の接戦から、延長10回タイブレークで土浦日大が一挙6点。
37年ぶりの甲子園勝利は、学校史上最高となるベスト4への入口になった。

土浦日大対上田西|延長10回タイブレークのイニングスコア

学校名 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 計 安打
土浦日大 0 1 1 0 0 0 0 0 0 6 8 13
上田西 0 0 0 2 0 0 0 0 0 1 3 7
投手

土浦日大:藤本 → 伊藤彩 → 藤本
上田西:権田 → 服部 → 滝沢 → 瀬山

本塁打

土浦日大:松田(権田)
上田西:なし

2023年8月6日――開会式のすぐあとだった

2023年夏。

土浦日大は第105回大会の開幕戦に登場した。

開会式が終わったばかりの甲子園。

まだ大会全体が何色になるのか、誰にも分からない時間である。

相手は長野・上田西。

二回。

土浦日大の5番・松田陽斗が中堅へ大会第1号となる本塁打を放った。

1-0。

三回にも1点を加える。

2-0。

だが上田西も簡単には終わらなかった。

四回に2点。

2-2。試合はそこから長い膠着状態へ入った。

五回から九回まで、ゼロが並んだ

五回。

六回。

七回。

八回。

九回。

両校の欄にゼロが並んだ。

甲子園の開幕戦は、いきなり九回では終わらなかった。

そして、この大会から延長十回以降に適用されたタイブレークへ入る。

延長十回――一つの安打から、六点になった

無死一、二塁から始まるタイブレーク。

土浦日大はいきなり送りバントに失敗した。

一死。

流れをつかみ損ねたようにも見えた。

しかし、暴投と四球で一死満塁。

ここで代打・飯田将生。

粘った末に左前へ運んだ。

3-2。

勝ち越し。

そして二死になっても終わらなかった。

塚原。

藤本。

大井。

中本。

太刀川。

打線がつながった。

六点。

8-2。

上田西もその裏1点を返した。

それでも8-3。

終盤までまったく分からなかった開幕戦は、最後の一イニングだけ突然、土浦日大色に染まった。

土浦日大8-3上田西|詳細記録

学校名 打数 安打 打点 二塁打 三塁打 本塁打 三振 四死球 犠打 盗塁 失策 残塁
土浦日大 41 13 7 0 0 1 6 6 1 4 0 12
上田西 35 7 2 1 0 0 11 2 2 3 0 8

※詳細記録は大会アーカイブの提供画面をもとに転記。タイブレークによる走者は通常の出塁記録とは異なる。

村瀬メモ|九回で終わらなかった。でも、今度はそこから始まった

2023年の土浦日大を見ていて、僕は不思議な感じがした。

九回で終わらない。

その言葉だけなら、49年前と同じだからだ。

1974年の土浦日大も、九回で終わらなかった。

あのときは、終わってほしかった。
2-1。九回裏二死走者なし。
あと一人で終わればよかった。

でも終わらなかった。

そして2023年。

今度も九回で終わらなかった。
しかし、こちらの延長戦は土浦日大の夏を終わらせるためではなかった。

十回に六点。

あまりに対照的で、僕には49年という時間そのものがスコアボードの間に見える気がする。

同じ学校が、同じ甲子園で、同じように九回を越えた。

片方は出口だった。
片方は入口だった。

古い試合の記録を残しておく意味は、こういう瞬間にあるのかもしれない。

37年ぶりの一勝が、4強まで続いた

上田西戦の勝利は、土浦日大にとって1986年以来37年ぶりの甲子園勝利だった。

だが、この夏は一勝で終わらなかった。

次の九州国際大付戦。

3-0。

三回戦は専大松戸。

序盤に大きくリードされながら、10-6でひっくり返した。

これで学校史上初のベスト8。

準々決勝では八戸学院光星を9-2。

ついにベスト4。

準決勝では、その大会を制する慶応に0-2で敗れた。

開幕戦の延長十回から始まった土浦日大の夏は、甲子園の最後から二つ目の日まで続いた。

ベンチには、1984年の取手二がいた

そして、この2023年の物語には、もう一本の茨城高校野球史が流れている。

土浦日大を率いた小菅勲監督。

高校時代は取手二の三塁手だった。

監督は、木内幸男。

1984年夏。

取手二は箕島を破り、鎮西を破り、鹿児島商工を破り、決勝ではKKのPL学園を延長十回8-4で破った。

茨城県勢初の全国制覇。

その優勝メンバーの一人が、39年後、土浦日大の監督として甲子園のベンチにいたのである。

取手二の夏は、昔話として終わってはいなかった。

茨城代表の「負けた初戦」|1974年・土浦日大2-3東海大相模

夏初出場の土浦日大が、優勝候補・東海大相模をあと一人まで追い詰めた。
九回二死走者なしから同点。延長16回、工藤一彦263球。甲子園初勝利は、最後まで手の届きそうな場所にあった。

東海大相模対土浦日大|延長16回のイニングスコア

学校名 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 計 安打
土浦日大 0 0 0 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 2 7
東海大相模 0 0 0 0 0 1 0 0 1 0 0 0 0 0 0 1x 3 12
投手

土浦日大:工藤
東海大相模:伊東 → 村中

本塁打

土浦日大:荒川
東海大相模:なし

関東三羽烏――工藤一彦

1974年。

関東には三人の好投手がいた。

銚子商の土屋正勝。

横浜の永川英植。

そして土浦日大の工藤一彦。

「関東三羽烏」と呼ばれた。

土屋は前年夏、江川卓の作新学院との雨中の死闘を制した銚子商のエース。

永川は1973年春、横浜をセンバツ初優勝へ導いた左腕。

工藤もまた、全国から注目される本格派だった。

まだ茨城県勢が全国優勝を経験する前の時代に、土浦日大には全国級のエースがいたのである。

実は、万全の工藤ではなかった

ところが、その工藤の夏は順風満帆ではなかった。

春の茨城大会を制したあと、おたふく風邪に感染。

症状は重く、およそ一か月の入院を余儀なくされた。

夏の茨城大会直前まで、体力は十分に戻っていなかったという。

それでも土浦日大は勝った。

決勝では取手二と対戦。

相手には、のちに西武で活躍する松沼雅之がいた。

3-1。

土浦日大は、学校史上初めて夏の甲子園へやって来た。

相手には、1年生の原辰徳がいた

初戦の相手は東海大相模。

監督は原貢。

そして三塁には、まだ1年生の原辰徳がいた。

六回裏。

一死二、三塁。

5番・原辰徳。

中前適時打。

東海大相模が1-0と先制した。

後に日本球界の中心へ進む原の甲子園物語も、まだ始まったばかりだった。

七回同点、八回逆転――荒川の一発

土浦日大は崩れない。

七回表。

二死二塁から林真人の適時打。

1-1。

八回表。

捕手・荒川俊男が左翼席へ本塁打を放った。

2-1。

夏初出場の土浦日大が、東海大相模を逆転した。

九回裏、二死走者なし

そして九回裏。

工藤は二人を打ち取った。

二死。

走者なし。

土浦日大の夏の甲子園初勝利まで、あと一人。

そこからだった。

鈴木が左前安打。

すかさず盗塁。

二死二塁。

杉山の中前適時打。

2-2。

あと一人だった試合が、そこから七イニングも続くことになる。

十六回――263球目の向こう側

延長戦に入っても、工藤は投げ続けた。

十回。

十一回。

十二回。

十三回。

十四回。

十五回。

どちらにも点が入らない。

十六回裏。

東海大相模は先頭・村中が二塁打。

バントが内野安打となり、敬遠もあって無死満塁。

一死後。

園田が右前へ運んだ。

3-2。

サヨナラ。

試合時間3時間27分。

工藤一彦、263球。夏初出場の土浦日大は、甲子園初勝利をあと一人まで引き寄せながら、その手からこぼれ落ちた。

東海大相模3-2土浦日大|詳細記録

学校名 打数 安打 打点 二塁打 三塁打 本塁打 三振 四死球 犠打 盗塁 失策 残塁
土浦日大 51 7 2 1 0 1 5 1 2 2 1 4
東海大相模 52 12 3 1 0 0 8 9 5 4 0 17

※詳細記録は大会アーカイブの提供画面をもとに転記。

村瀬メモ|あと一人だった

僕は「あと一人」という言葉が、高校野球では少し怖い。

あと一人で勝てる。
あと一球で終わる。

そこまで行った瞬間、勝利はもう手の中にあるように見える。

でも、まだ終わっていない。

1974年の土浦日大は、まさにその場所に立っていた。

夏初出場。
相手は東海大相模。
九回裏。
2-1。
二死走者なし。

あと一人だった。

それなのに、その試合は十六回まで続いた。

工藤は263球を投げた。

しかも後年の本人の回想を読むと、決して万全な体ではなかったという。春に重い病気で入院し、十分な体力が戻らないまま夏を投げていた。

それでも投げた。
十四回も。十五回も。十六回も。

結果だけなら「初戦敗退」である。

でも僕には、この試合をそんな四文字では片づけられない。

まだ茨城が全国制覇を知らなかった時代に、夏初出場の学校が、全国屈指の強豪をあと一人まで追い詰めた。

勝てなかった。

だからこそ、その一人が半世紀たっても遠く見えるのである。

二つの土浦日大の間に、取手二と木内幸男がいた

1974年と2023年。

その間は49年。

もちろん、その間の茨城高校野球が空白だったわけではない。

むしろ、この49年の途中で茨城の景色は大きく変わった。

1984年。

木内幸男監督の取手二が全国制覇。

決勝で破ったのは、桑田真澄と清原和博のPL学園だった。

1990年代から2000年代には、木内が率いる常総学院が全国の常連となる。

2003年夏には常総学院も全国制覇。

「甲子園でなかなか勝てない県」だった茨城は、いつしか全国でも名前を知られる県へ変わった。

そして2023年。

土浦日大のベンチにいた小菅勲は、木内監督の取手二で全国優勝を経験した選手だった。

人がつながる。学校がつながる。勝った夏と負けた夏がつながる。そうして県の高校野球史は少しずつ形を変えていく。

村瀬メモ|49年前に取れなかった、一つのアウト

1974年。

土浦日大の夏の甲子園初勝利まで、あと一人だった。

その一人が取れなかった。

工藤一彦はそこから、さらに七イニングを投げた。
二百六十三球の先で、夏が終わった。

それから49年。

2023年の土浦日大も、初戦は九回で終わらなかった。

延長十回。

今度は土浦日大が六点を取った。

同じ学校の歴史なのに、延長戦というものが、一方では残酷な出口になり、一方では新しい夏への入口になった。

その間には、木内幸男がいた。
取手二の全国制覇があった。
常総学院があった。
そして、取手二で三塁を守っていた小菅勲が、土浦日大の監督として戻ってきた。

高校野球の歴史は、ときどき不思議なくらい長い時間をかけて続きを見せてくれる。

1974年に取れなかった一つのアウトを、2023年の選手が取り返したわけではない。

もちろん、そんな単純な話ではない。

それでも二つのスコアを並べると、僕にはどこかで白球がつながっているように見える。

そして2024年――今度は霞ケ浦が勝った

2023年に土浦日大が4強へ進んだ翌夏。

茨城代表は霞ケ浦だった。

相手は智弁和歌山。

全国制覇経験を持つ強豪である。

霞ケ浦は3-0とリードしながら、八回に2者連続本塁打などで追いつかれた。

3-3。

また延長。

またタイブレーク。

十一回表、霞ケ浦が2点を勝ち越す。

その裏、智弁和歌山の反撃を1点でしのいだ。

5-4。

霞ケ浦、春夏を通じて甲子園初勝利。

土浦日大が4強へ進んだ次の夏に、今度は別の茨城代表が全国王者経験校を破った。これは偶然というだけでは片づけたくない。

「常総だけ」ではなくなったことの強さ

一時代の茨城を語るなら、常総学院の存在はあまりにも大きい。

木内幸男監督。

1987年夏の準優勝。

1994年春の準優勝。

2001年春の優勝。

2003年夏の優勝。

長い間、「茨城代表」と聞けば常総学院を思い浮かべる人も多かった。

だが今、僕が面白いと思うのは、常総の名前が消えたことではない。

むしろ逆だ。

勝てる学校が増えている。

2023年は土浦日大。

2024年は霞ケ浦。

茨城高校野球の強さが、一つの校名だけに収まらなくなってきた。

僕には、その方がずっと面白い。

村瀬メモ|茨城は、木内幸男だけでは終わらなかった

茨城の高校野球史を語れば、どうしたって木内幸男という名前に行き着く。

取手二を全国一にした。
常総学院を全国屈指の強豪にした。

だから木内監督がいなくなったあと、茨城の高校野球はどうなるのだろう、と感じた人もいたと思う。

でも2023年、土浦日大を率いていたのは木内監督の教え子だった。

そして翌年には霞ケ浦が甲子園初勝利を挙げた。

僕はここに、少し違う意味での「木内野球のその後」を感じる。

一人の名将が永遠に勝ち続けるわけではない。
一校が永遠に県を代表し続けるわけでもない。

でも、その土地に「全国でも勝てる」という記憶が残れば、それは別の学校へも広がっていく。

1974年には、あと一人が取れなかった。

1984年には、初めて優勝旗が来た。

2003年には、常総学院がもう一度優勝旗を持ち帰った。

2023年には土浦日大が4強へ進み、2024年には霞ケ浦が初勝利を挙げた。

茨城の高校野球は、一人の名将の物語だけでは終わらなかった。

そこが、いま面白いのである。

まとめ|延長戦の向こうにあった二つの夏

1974年。

土浦日大、夏初出場。

工藤一彦。

東海大相模。

九回裏二死走者なし。

あと一人。

追いつかれた。

延長十六回。

2-3。

2023年。

土浦日大、開幕戦。

上田西。

九回を終えて2-2。

延長十回。

今度は一挙6点。

8-3。

その一勝から4強まで進んだ。

二つの試合の間に49年。

その途中には、取手二がいた。

木内幸男がいた。

常総学院がいた。

そして2024年には霞ケ浦も勝った。

高校野球の県勢史は、一つの学校だけではできていない。

勝った学校があり、負けた学校がある。
あと一人まで行った夏があり、一気に六点を取った夏がある。

その全部が積み重なって、県の野球になる。

1974年に土浦日大が取れなかった一つのアウトを、僕らは今も覚えている。

そして49年後、同じ校名が甲子園の開幕戦で延長を制し、学校史上初の4強へ走っていった。

昔の敗戦は、未来の勝利を約束するものではない。

それでも長い時間を並べてみると、負けた夏にもちゃんと続きがあったことに気づく。

それが、このクロニクルを書いていて一番うれしい瞬間なのかもしれない。

茨城の甲子園初戦史|よくある質問

Q1.2023年の土浦日大対上田西のスコアは?
A.土浦日大が延長10回タイブレークの末、8-3で勝利した。9回までは2-2。10回表に土浦日大が一挙6点を奪った。
Q2.2023年の開幕戦は大会史上初のタイブレークだった?
A.開幕戦がタイブレークに入ったのは大会史上初。土浦日大と上田西は9回を2-2で終え、延長10回からタイブレークに入った。
Q3.2023年の土浦日大は甲子園でどこまで進んだ?
A.学校史上初のベスト4まで進出した。上田西、九州国際大付、専大松戸、八戸学院光星を破り、準決勝で慶応に0-2で敗れた。
Q4.土浦日大の小菅勲監督は取手二の全国優勝メンバー?
A.そう。小菅勲監督は1984年夏、木内幸男監督率いる取手二の三塁手として全国制覇を経験している。2023年には監督として土浦日大を甲子園4強へ導いた。
Q5.1974年の土浦日大対東海大相模は何回まで続いた?
A.延長16回。土浦日大が9回裏二死走者なしまで2-1とリードしていたが、東海大相模が追いつき、16回裏に3-2でサヨナラ勝ちした。
Q6.1974年の工藤一彦は何球投げた?
A.東海大相模との延長16回を一人で投げ抜き、263球を投じたと本人の回想などで伝えられている。
Q7.工藤一彦が「関東三羽烏」と呼ばれた相手は誰?
A.銚子商の土屋正勝、横浜の永川英植、土浦日大の工藤一彦の3投手が「関東三羽烏」と呼ばれた。いずれも1970年代前半の関東を代表する好投手だった。
Q8.霞ケ浦が甲子園初勝利を挙げたのはいつ?
A.2024年夏。智弁和歌山を延長11回タイブレークの末5-4で破り、春夏通じて甲子園初勝利を挙げた。

関連記事

使用した主な情報ソース

土浦日本大学高等学校 硬式野球部|沿革・記録

https://www.tng.ac.jp/tsuchiura/clubsite_baseball/about/history.html

1974年春夏の甲子園初出場、夏の東海大相模戦2-3、2023年夏のベスト4、小菅勲監督の就任時期など学校史の確認に使用。

土浦日本大学高等学校 硬式野球部|2023年度試合結果

https://www.tng.ac.jp/tsuchiura/clubsite_baseball/game/2023.html

上田西8-3、九州国際大付3-0、専大松戸10-6、八戸学院光星9-2、慶応0-2という2023年夏の甲子園戦績確認に使用。

毎日新聞|土浦日大が上田西を降し37年ぶりの初戦突破 夏の甲子園開幕戦

https://mainichi.jp/articles/20230806/k00/00m/050/018000c

2023年8月6日の開幕戦、土浦日大8-3上田西、37年ぶりの甲子園勝利などの確認に使用。

毎日新聞|全国高校野球 土浦日大8-3上田西

https://mainichi.jp/articles/20230807/ddm/035/050/153000c

開幕戦として史上初のタイブレーク、延長10回の一挙6得点など試合経過の確認に使用。

日刊スポーツ|土浦日大、開幕戦からタイブレークで37年ぶり白星

https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/202308060000210.html

松田陽斗の大会第1号本塁打、10回の代打・飯田将生の勝ち越し打、その後の連打による6得点などの確認に使用。

日刊スポーツ|土浦日大・小菅勲監督、恩師の木内幸男さんへ感謝の白星

https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/202308160001296.html

小菅勲監督が木内幸男監督率いる1984年取手二の三塁手として全国制覇を経験したこと、2023年に土浦日大を学校史上初の8強へ導いた背景確認に使用。

Full-Count|工藤一彦、263球の熱投と1974年夏

https://full-count.jp/2024/04/05/post1537417/

工藤一彦が夏前に重いおたふく風邪で入院していたこと、1974年8月12日の東海大相模戦で延長16回263球を投げたこと、9回二死走者なしから追いつかれた試合経過などの確認に使用。

Full-Count|土浦日大・工藤、横浜・永川、銚子商・土屋「関東三羽烏」

https://full-count.jp/2024/04/04/post1536702/

工藤一彦、永川英植、土屋正勝が「関東三羽烏」と称されたことなど、1970年代前半の関東高校野球の背景確認に使用。

高校野球資料館|1974年夏 東海大相模

https://www5c.biglobe.ne.jp/~mori95/khb/kh1974.htm

土浦日大2-3東海大相模の16イニングのスコア、1年生・原辰徳の先制打、林真人の同点打、荒川俊男の本塁打、9回の同点劇、16回のサヨナラ場面、試合時間3時間27分などの照合に使用。

LuckyFM茨城放送|高校野球 霞ケ浦が智弁和歌山に粘り勝ち

https://lucky-ibaraki.com/news_list/566485/

2024年夏、霞ケ浦が智弁和歌山を延長11回タイブレークの末5-4で破り、春夏通じて甲子園初勝利を挙げたことの確認に使用。

記事についての注意書き

本記事は、公開されている大会記録、学校公式資料、新聞・スポーツ媒体の記事、および大会アーカイブの記録画面を照合し、筆者の記憶と考察を加えて再構成した。試合の空気、学校史・県勢史における位置づけには筆者独自の解釈を含む。1974年の土浦日大対東海大相模については、工藤一彦本人の後年の回想を含む報道記事と大会記録を照合した。2023年の上田西戦、同大会の勝ち上がり、2024年の霞ケ浦対智弁和歌山については、学校公式記録および報道資料を参照した。選手名、学校名は原則として当時の表記を用いた。
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