兵庫の甲子園初戦クロニクル|明石南、延長14回の一勝と山口高志が消えた夏

甲子園コラム

初戦・故郷の白球史|49代表地区に残る、勝った夏と負けた夏

兵庫の甲子園初戦クロニクル|明石南、延長14回の一勝と山口高志が消えた夏

甲子園は、兵庫県にある。

けれど、兵庫の球児にとって、甲子園は決して近い場所ではない。

電車に乗れば、球場の照明塔が見える町もある。

県大会で甲子園の土を踏むことさえあった時代もある。

それでも、夏の代表としてあの門をくぐり、全国大会の初戦を勝つまでの距離は、どの故郷よりも遠かった。

1979年、明石南。

春夏を通じて初めて甲子園へ出た県立校は、安積商に4-3とリードされ、9回裏を迎えた。

あと三つのアウトで、ただ一度の夏が終わる。

明石南は追いついた。

そこから五つの回を耐え、延長14回裏に、もう一度走者を三塁へ置いた。

最後は、明石南らしい小さな打球だった。

バットを寝かせた白球が内野を転がり、三塁走者がホームへ飛び込む。

5x-4。

一方、1968年の市神港には、後に伝説となる剛腕がいた。

山口高志。

県大会では、名門の打線さえ速球でねじ伏せた。

前年春には東洋大姫路、育英を相手に、二試合連続ノーヒットノーラン。

だが、高校最後の夏。

秋田市立との初戦で試合を傾けたのは、剛球ではなかった。

投手ゴロをつかみ、併殺を焦って投じた、自らの悪送球だった。

無名の県立校が延長14回を勝ち切り、伝説の剛腕を擁する古豪が最初の九回で消えた。

甲子園のお膝元にあっても、一勝は遠い。

兵庫編では、その当たり前で残酷な事実を、二つの公立校の初戦から見つめたい。

甲子園までの距離が近くても、勝利までの距離は近くない。
無名の県立校が拾った延長14回の一勝と、伝説の剛腕さえ越えられなかった初戦がある。

甲子園のお膝元・兵庫には、一校では語れない歴史がある

兵庫県の高校野球史は、ひとつの名門だけでは語れない。

神戸一中、関西学院中、甲陽中。

戦前から全国の頂点へ立った学校がある。

戦後には芦屋、洲本、東洋大姫路、報徳学園、育英。

時代が変わるたび、異なる地域、異なる校風の学校が甲子園を制した。

神戸の学校。

阪神間の学校。

播磨の学校。

淡路島の学校。

私学の名門もいれば、県立や市立の古豪もいる。

兵庫は、甲子園のすぐそばにありながら、代表争いそのものが全国大会のように厳しい。

報徳学園を倒しても、東洋大姫路がいる。

育英を越えても、市尼崎や神港学園が待つ。

明石商が台頭すれば、神戸国際大付が立ちはだかる。

ひとつ勝っても、まだ甲子園は見えない。

だからこそ、兵庫代表の初戦には独特の重圧がある。

激戦の県大会を勝ち抜いた以上、全国でも勝たなければならない。

地元開催だから、アルプスには大応援団が集まる。

近いからこそ、期待もまた近い。

1979年の明石南と、1968年の市神港。

どちらも公立校だった。

だが、一方は全国にはほとんど名を知られていない初出場校。

もう一方は、戦前の全国制覇を受け継ぐ古豪である。

その二校が、甲子園の初戦でまったく逆の結末を迎えた。

勝った初戦|1979年、明石南5x-4安積商

勝った初戦

大会
第61回全国高等学校野球選手権大会
回戦
1回戦
球場
阪神甲子園球場
対戦
明石南(兵庫)5x-4 安積商(福島)
試合結果
延長14回、明石南がサヨナラ勝ち
投手
浜名(明石南)、根本学(安積商)

1979年の兵庫大会は、公立校が主役になった

1979年の兵庫大会は、名門私学が順当に勝ち残った夏ではなかった。

この年のセンバツでベスト8へ進んだ尼崎北が、県大会5回戦で敗れた。

準々決勝へ残った8校のうち、7校が公立校だった。

豊岡、舞子、兵庫、明石南、尼崎小田、武庫荘、市尼崎。

私学の校名が全国へ響く兵庫県で、公立校のユニホームが大会終盤を埋めた。

その夏を制したのが、明石南だった。

県大会4回戦では、9回に2点差を追いながら一挙5点を奪い、御影工に逆転勝ち。

一度終わりかけた試合を、終盤にひっくり返した。

その粘りは、甲子園の初戦でもう一度姿を現すことになる。

明石南は、春夏を通じて初めて全国大会へ出場した。

現在まで、夏の甲子園出場はこの1979年の一度だけである。

だからこの大会の一球一球が、そのまま学校の甲子園史になった。

相手は「小さな大投手」が率いた安積商

対戦相手の安積商も、春夏を通じて甲子園初出場だった。

だが、初出場だからといって、無名の弱い学校ではなかった。

監督は田村隆寿。

1971年夏、福島県立磐城高校のエースとして甲子園準優勝を果たした、「小さな大投手」である。

165センチほどの小柄な体から、鋭い速球と変化球を投げ込み、決勝までほとんど点を許さなかった。

炭鉱の町から現れた磐城の快進撃は、東北高校野球史の伝説になった。

その田村が指導者となり、安積商を夏の甲子園へ連れてきた。

エースは根本学。

投げるだけではなく、自ら本塁打を放つ力もあった。

僕の記憶では、安積商は当時、東北屈指の力を持つチームとして見られていた。

明石南は地元兵庫の代表だったが、戦前の評判では、安積商を上に見る声があっても不思議ではなかった。

無名の公立校同士の初出場対決。

だが、その裏側には、甲子園準優勝投手が育てた強打の安積商と、兵庫の大波乱を勝ち抜いた明石南という、濃い物語があった。

明石南対安積商|延長14回のイニングスコア

学校名 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 安打
安積商 0 1 1 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4 12
明石南 2 0 1 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 1x 5 12
投手

安積商:根本学
明石南:浜名

本塁打

安積商:根本学
明石南:なし

明石南が先制し、安積商が力で押し返した

明石南は初回、2点を先制した。

初出場校にとって、甲子園で最初に取る一点ほど大きなものはない。

球場は地元兵庫。

アルプスには、明石から駆けつけた大応援団がいた。

いつもテレビで見ていた甲子園が、この日だけは自分たちの球場になる。

明石南は、その緊張を振り払うように先手を取った。

しかし、安積商は2回に1点。

3回にも1点を奪い、2-2とする。

明石南は3回裏に1点を勝ち越した。

3-2。

一進一退だった。

5回表、安積商が2点を奪う。

試合ではエース・根本学の本塁打も飛び出した。

田村監督が鍛えた安積商らしく、強く振り切る打線が明石南を押し返した。

スコアは4-3。

安積商が初めて前へ出た。

6回から8回、ゼロが並ぶほど一点が重くなった

6回、両校無得点。

7回もゼロ。

8回も動かなかった。

明石南は走者を出しながら、あと一本が出ない。

試合全体で四死球は8。

犠打は5。

残塁は13。

明石南は何度も塁上へ走者を置き、何度も得点の入口まで進んだ。

それでも、ホームが遠かった。

一方の安積商も12安打を放ちながら、6回以降は得点できない。

浜名が粘った。

打たれても、走者を背負っても、次の一点だけは渡さない。

4-3のまま、試合は9回裏へ入った。

甲子園初勝利まで、安積商はあと三つのアウト。

明石南にとっては、学校史上ただ一度になるかもしれない夏が、終わりへ近づいていた。

9回裏、明石南は終わりかけた夏をつなぎ直した

明石南は9回裏、1点を奪った。

4-4。

試合は振り出しへ戻った。

当時の試合回想では、安積商が勝利まであと一人に迫ったところから、明石南が追いついたと伝えられている。

県大会でも、明石南は9回に試合をひっくり返していた。

甲子園でもまた、最後の一回で夏を救った。

これは偶然ではなかったのだろう。

派手な長打だけに頼らない。

四球を選ぶ。

バントで進める。

一塁から次の塁を狙う。

明石南は、試合が終わるまで得点の可能性を捨てないチームだった。

同点になっても、歓喜は一瞬で終わる。

まだ、勝ってはいない。

延長戦が始まった。

10回から13回――終わらない初戦

10回、ゼロ。

11回もゼロ。

12回、13回。

両校の欄には、同じ数字が並んだ。

投手は代わらない。

安積商は根本。

明石南は浜名。

二人は試合の最初から、最後までマウンドを守った。

延長に入れば、一つの失策が終幕になる。

一本の四球が、故郷の夏を奪う。

打席へ向かう選手も、守備へ就く選手も、疲労と緊張を抱えていたはずだ。

それでも、スコアボードにはゼロが積み重なった。

甲子園の初戦が、九回では足りないとでも言うように。

延長14回、最後はスリーバントスクイズだった

延長14回裏。

明石南は、一死二、三塁の好機をつくった。

外野へ飛ばせば、犠牲フライでも試合は終わる。

だが、明石南が選んだのは、もっと小さな打球だった。

当時の試合回想に残るのは、スリーバントスクイズである。

二度失敗しても、もう一度バットを寝かせる。

三塁走者がスタートを切る。

白球が内野へ転がる。

ホームへ滑り込む。

5x-4。

延長14回、サヨナラ勝ち。

強打の安積商を倒したのは、豪快な本塁打ではなかった。

送り、走り、転がし、最後の一歩を先に踏んだ。

明石南は、明石南の野球で、学校史上初めての甲子園勝利をつかんだ。

明石南対安積商|詳細記録

学校名 打数 安打 打点 二塁打 三塁打 本塁打 三振 四死球 犠打 盗塁 失策 残塁
安積商 48 12 3 1 1 1 2 3 2 3 1 7
明石南 45 12 5 2 1 0 9 8 5 2 1 13

※詳細記録は、朝日・日刊スポーツ大会アーカイブの提供画面をもとに転記。得点と打点は失策、野選などによって一致しない場合がある。

明石南の一勝は、スター選手が力で奪った勝利ではない。

四死球八、犠打五、残塁十三。何度も好機を逃しながら、最後まで走者を進めることをやめなかった。

初出場校にとって、初戦は自分たちの野球を疑う時間でもある。明石南は十四回まで、自分たちの小さな野球を信じ抜いた。

ただ一度の夏に残した、ただ一つの甲子園勝利

明石南は、次の2回戦で日大山形と対戦した。

結果は2-4。

初戦を延長14回で勝ち切った明石南の夏は、二試合目で終わった。

それ以降、明石南は夏の甲子園へ戻っていない。

甲子園通算成績は1勝1敗。

たった一度の出場。

たった一度の勝利。

だが、その一勝には、普通の一勝では収まりきらない時間が詰まっている。

九回に追いついた。

延長を五回耐えた。

最後は三度目のバントを決めた。

全国制覇のような大きな栄光ではない。

だが、学校の歴史にとっては、これ以上ない一勝である。

甲子園の初戦には、こういう勝利がある。

その学校が、未来永劫語り継げる、ただ一つの夏をつくる勝利である。

負けた初戦|1968年、市神港2-7秋田市立

負けた初戦

大会
第50回全国高等学校野球選手権大会
回戦
2回戦・市神港にとっての大会初戦
球場
阪神甲子園球場
対戦
秋田市立(秋田)7-2 市神港(兵庫)
試合結果
秋田市立が5回と8回に3点を奪い勝利
投手
山口高志(市神港)、高橋(秋田市立)

市神港は、第一神港商から続く古豪だった

市神港は、ただの公立校ではない。

その前身は、第一神港商業。

戦前の高校野球史に、太い文字で名を残した学校である。

1929年春、センバツ優勝。

1930年春も優勝。

選抜大会史上初の連覇を成し遂げた。

兵庫には戦前から数多くの強豪がいた。

関西学院中、甲陽中、神戸一中。

その中でも第一神港商は、全国の頂点を知る名門だった。

時代が流れ、市神港となってからも、その歴史はユニホームの奥に残っていた。

1968年夏。

市神港は37年ぶり6回目の兵庫大会優勝を果たした。

その古豪を、久しぶりの夏の甲子園へ導いた投手が山口高志だった。

東洋大姫路、育英を二試合連続ノーヒットノーラン

山口高志は、身長170センチ。

後の大型速球投手と比べれば、決して大きな体ではない。

だが、その右腕から放たれる白球は、打者の手元でさらに伸びた。

1967年春の兵庫県大会。

山口は東洋大姫路、育英を相手に、二試合連続ノーヒットノーランを達成した。

ここは記録として整理しておきたい。

二試合連続無安打無得点は、1968年夏の県予選ではなく、山口が2年生だった1967年春の兵庫大会である。

それでも、相手が東洋大姫路と育英だった事実は重い。

どちらも兵庫を代表する強豪校。

その打線を二試合続けて無安打に封じた。

山口は、全国へ出る前から、兵庫県内では別格の投手だった。

春夏連続出場を背負った、最後の県大会

1968年春、市神港はセンバツへ出場した。

初戦では別府鶴見丘に10-4で勝利。

2回戦では尾道商と延長10回を戦い、0-2で敗れた。

尾道商は、その大会で準優勝している。

春の甲子園で一勝したことで、夏への期待はさらに高まった。

山口自身も後年、周囲から「夏も甲子園へ行ける」と見られることが重圧になったと振り返っている。

夏の兵庫大会。

市神港は三田学園を6-0。

育英には10-0、5回コールド。

準決勝では滝川に序盤リードされながら、15-5で逆転勝ち。

決勝の尼崎西戦は1-0。

山口が完封し、市神港は37年ぶりの夏をつかんだ。

県大会では、誰も山口を止められないように見えた。

春に一勝している。

夏も一つ、二つは勝てる。

市神港と山口に、全国の期待が集まった。

秋田市立対市神港|2-7のイニングスコア

学校名 1 2 3 4 5 6 7 8 9 安打
市神港 0 0 0 0 0 1 1 0 0 2 9
秋田市立 0 0 1 0 3 0 0 3 x 7 6
投手

市神港:山口
秋田市立:高橋

本塁打

市神港:なし
秋田市立:中島

3回の一点――山口でも、先に点を取られた

秋田市立は3回、1点を先制した。

山口を相手に、先にスコアボードを動かした。

市神港の打線は、秋田市立の高橋から走者を出していた。

試合全体では9安打。

四死球も6つ得ている。

だが、序盤は得点できない。

山口なら、一点差のまま耐えてくれる。

そう信じていたはずだ。

県大会で見せた圧倒的な投球を考えれば、一点はまだ小さかった。

だが、甲子園の初戦では、その小さな一点が投手の心を急がせることがある。

5回、併殺を焦った一球が二点になった

試合の分岐点は5回だった。

一死一、二塁。

打球は山口の前へ転がった。

投手ゴロ。

うまくさばけば、二塁から一塁へ渡る併殺で、危機を断てる場面だった。

山口は二塁へ投げた。

だが、送球はそれた。

悪送球。

その間に、二人の走者がホームへ生還した。

山口は後年、併殺を焦ったこと、そして、その失策から気持ちを切り替えられなかったのかもしれないと振り返っている。

剛速球投手が打たれて崩れたのではない。

自らの守備で生まれた二点が、心の中へ残った。

高校野球のエースは、投げるだけではない。

打球を処理し、塁へ投げ、走者を止める。

どれほど速い球を持っていても、一つの送球から試合が傾く。

秋田市立はこの回、3点を奪った。

スコアは4-0。

市神港は二点を返した――だが、流れは戻らなかった

市神港は6回に1点を返した。

7回にも1点。

4-2。

少しずつ差を縮めた。

打線は9安打を放っている。

相手の6安打を上回った。

安打数だけを見れば、市神港のほうが多い。

だが、得点はつながらなかった。

残塁は10。

失策は3。

山口を援護するための走者は出ても、ホームまで返し切れない。

それでも、二点差ならまだ届く。

山口が8回を抑えれば、最後の攻撃に希望を残せる。

だが、秋田市立はそこで試合を決めた。

8回、中島のランニング本塁打

8回、秋田市立は3点を加えた。

その中に、中島の本塁打があった。

山口自身の回想では、ランニング本塁打だったという。

外野を抜けた打球が転がり、打者走者が二塁、三塁を回る。

甲子園の歓声が大きくなる。

本塁へ返球される前に、走者がホームを踏む。

7-2。

県大会では、打者が山口の球に追いつけなかった。

甲子園では、その球を打った走者が、ダイヤモンドを一周した。

伝説の剛腕にとって、高校最後の夏は、あまりにも皮肉な形で遠ざかっていった。

山口高志の最後の夏は、初戦で終わった

試合終了。

秋田市立7-2市神港。

山口高志の高校最後の夏は、一試合で終わった。

山口は、全国優勝を大げさに考えていたわけではないが、一つ、二つは勝ちたかったと振り返っている。

春には一勝した。

県大会では名門を圧倒した。

夏も勝てると期待された。

それでも、甲子園の初戦では七点を失った。

秋田市立は、勢いだけで市神港を倒した学校ではない。

次の智弁学園戦にも7-2で勝利。

準々決勝まで進み、静岡商に1-5で敗れた。

初出場ながらベスト8へ進んだ実力校だった。

市神港が偶然の番狂わせに泣いたというより、秋田市立が甲子園で力を出し切り、市神港が初戦の流れに飲み込まれた試合だった。

秋田市立対市神港|詳細記録

学校名 打数 安打 打点 二塁打 三塁打 本塁打 三振 四死球 犠打 盗塁 失策 残塁
市神港 32 9 2 0 1 0 6 6 1 1 3 10
秋田市立 32 6 3 1 1 1 4 4 0 0 1 5

※詳細記録は、朝日・日刊スポーツ大会アーカイブの提供画面をもとに転記。秋田市立の得点と打点が一致しないのは、市神港の失策など、打点が付かない形で得点したためである。

山口高志を打ち崩したから、秋田市立が勝ったのではない。

市神港は相手より三本多い九安打を放った。それでも、残塁十、失策三。秋田市立は六安打で七点を奪った。

初戦では、持っている力の大きさより、その九回で力を勝利へ変えられるかが問われる。伝説の剛球も、その日の一つの悪送球を消してはくれなかった。

山口高志は、敗戦の先で本当の伝説になった

市神港を卒業した山口高志は、関西大学へ進んだ。

その後、松下電器を経て、1974年のドラフト1位で阪急ブレーブスへ入団する。

プロ1年目の1975年から12勝。

翌1976年も12勝。

1977年は10勝、1978年には13勝を挙げた。

通算50勝、44セーブ。

小柄な体から投げ込む剛速球は、プロの強打者にも恐れられた。

山口高志という名を聞けば、阪急黄金時代の速球王を思い出すファンは多い。

だが、その伝説の始まりには、秋田市立に敗れた甲子園の初戦がある。

勝てなかった夏。

自らの悪送球を悔やんだ夏。

それがあったから、山口は大学、社会人、プロで、さらに速い球を求め続けたのかもしれない。

甲子園の敗北は、選手の価値を決めるものではない。

ときに敗戦は、後の人生で何度も投げ直される一球になる。

明石南と市神港|名のない一勝と、名を残す敗戦

1979年・明石南

春夏を通じて甲子園初出場。

安積商に9回までリードされながら追いつき、延長14回に5x-4でサヨナラ勝ちした。

現在まで唯一の夏に、学校史上ただ一つの甲子園勝利を残した。

1968年・市神港

第一神港商時代のセンバツ連覇を受け継ぐ古豪。

伝説の剛腕・山口高志を擁しながら、自らの悪送球を境に秋田市立へ2-7で敗れた。

初戦敗退の先で、山口は日本球界を代表する速球投手になった。

明石南には、全国的なスターはいなかった。

市神港には、後に伝説となる山口高志がいた。

明石南は、十四回をかけて一勝をつかんだ。

市神港は、九回を終える前に五点差をつけられた。

選手の知名度も、学校の歴史も、初戦の勝敗を保証しない。

古豪だから勝つとは限らない。

剛腕がいるから勝つとも限らない。

逆に、誰も知らない初出場校が、九回から試合を生き返らせることもある。

兵庫県は、甲子園の所在地である。

だからこそ、兵庫の球児は、甲子園を特別な遠征先としてではなく、日常のすぐそばにある夢として見て育つ。

しかし、近くに見える夢ほど、つかめない時の痛みは大きい。

明石南の一勝と、市神港の敗戦。

二つを並べると、甲子園という場所の公平さが見えてくる。

校名も、歴史も、未来の名声も、試合開始のサイレンとともにいったん消える。

残るのは、その日の白球だけだ。

無名校の一勝が、名門の歴史より重い夜もある。
未来の伝説が、最初の九回を越えられない夏もある。
それが、甲子園の初戦である。

もう一つの初戦|2018年、明石商8-9八戸学院光星

第100回全国高等学校野球選手権記念大会・1回戦

八戸学院光星 9-8 明石商

延長10回・最大6点差を追いついた、名門前夜の敗戦

兵庫の「負けた初戦」には、後年の結末まで含めて語りたい一戦がある。

2018年、明石商対八戸学院光星。

明石商は、夏の甲子園初出場だった。

同じ明石の公立校。

1979年の明石南から39年後、今度は市立の明石商が甲子園へ現れた。

試合は厳しい立ち上がりになった。

八戸学院光星が初回に2点。

2回には4点。

4回表にも1点を加え、スコアは7-1。

最大6点差。

普通なら、初出場校の夏が壊れてもおかしくない。

だが、明石商は4回裏に4点。

7回裏には3点を奪った。

8-8。

六点差が消えた。

甲子園の空気は、地元の明石商を押した。

しかし延長10回表、八戸学院光星が1点を勝ち越す。

明石商はその裏、得点できなかった。

8-9。

六点差を追いつきながら、一点差で敗れた。

1979年、明石南は9回に追いつき、延長14回で勝った。

2018年、明石商は六点差を追いつき、延長10回で敗れた。

同じ明石の公立校。

同じ「終わりかけた夏」をつなぎ直した試合。

だが、最後の一点は別々の側へ転がった。

翌年、同じ相手に一点差で勝った

この敗北には、翌年の続きがある。

2019年夏。

明石商は再び甲子園へ出場した。

準々決勝の相手は、八戸学院光星。

前年の初戦で、一点差の敗北を喫した相手だった。

今度は、明石商が序盤に6点を先行した。

八戸学院光星も追い上げる。

試合は、また一点差になった。

明石商7-6八戸学院光星。

前年は8-9。

翌年は7-6。

一点差の敗戦を、一点差の勝利で返した。

明石商は夏初のベスト4へ進出。

春のセンバツに続き、春夏連続の4強となった。

兵庫の公立校が夏の準決勝へ進んだのは、1952年の芦屋以来、67年ぶりだった。

2018年の初戦敗退は、明石商の終点ではなかった。

名門へ変わっていくための、最初の痛みだった。

負けた初戦が、一年後の勝利へつながることもある。

クロニクルとは、敗戦の翌ページまで読むことなのだと思う。

兵庫の公立校は、甲子園を「地元の球場」に変えてきた

兵庫県の甲子園史には、私学の名門が数多く登場する。

報徳学園。

東洋大姫路。

育英。

神港学園。

神戸国際大付。

だが、兵庫の物語を厚くしてきたのは、名門私学だけではない。

芦屋、洲本、市神港、市尼崎、尼崎北、明石南、明石商。

町の名前をそのまま背負う公立校が、ときどき甲子園へ現れる。

選手たちは、遠い土地から来るのではない。

普段から甲子園の存在を感じながら育っている。

阪神電車の車窓から照明塔を見た者もいるだろう。

県大会の応援で、甲子園のスタンドに座った者もいる。

だが、代表校としてグラウンドへ立つ日は、まったく違う。

球場は近くても、全国大会の空気は遠い。

その距離を、明石南は十四回かけて越えた。

市神港の山口高志は、越えられなかった。

明石商は一度敗れ、一年後に越えた。

兵庫の公立校が残した初戦には、甲子園を「全国大会の球場」から「自分たちの球場」へ変えようとする意志がある。

だから、勝敗を越えて胸に残る。

まとめ|甲子園のすぐそばで、一勝は遠かった

1979年、明石南は春夏を通じて初めて甲子園へ出場した。

相手は、磐城高校の準優勝投手「小さな大投手」田村隆寿が率いる安積商。

明石南は初回に2点を先制した。

安積商は2回、3回に1点ずつ。

明石南は3回に勝ち越したが、安積商が5回に2点を奪い、4-3と逆転した。

9回裏、明石南が同点。

延長14回裏、一死二、三塁。

試合回想に残るスリーバントスクイズで、5x-4のサヨナラ勝ちを収めた。

両校12安打。

明石南は四死球8、犠打5、残塁13。

何度も走者を残しながら、最後まで小さな野球を続けた。

現在まで、明石南の夏の甲子園出場はこの一度だけ。

この勝利が、学校史上唯一の甲子園勝利である。

1968年、市神港には山口高志がいた。

前身の第一神港商は、1929年、1930年のセンバツを連覇した古豪。

山口は1967年春の兵庫大会で、東洋大姫路と育英を相手に二試合連続ノーヒットノーラン。

1968年は春夏連続で甲子園へ出場した。

夏の初戦、相手は秋田市立。

3回に先制を許し、5回一死一、二塁で投手ゴロを二塁へ悪送球。

その間に二人の走者が生還した。

8回には中島のランニング本塁打を含む3点を奪われ、2-7で敗れた。

山口の高校最後の夏は、最初の試合で終わった。

その後、山口は阪急で通算50勝、44セーブ。

日本球界を代表する剛速球投手になった。

そして2018年。

明石商は八戸学院光星に最大6点差をつけられながら、8-8へ追いついた。

延長10回、8-9で敗れた。

翌2019年の準々決勝。

同じ相手に、今度は7-6で勝利した。

甲子園のお膝元・兵庫。

しかし、球場が近いからといって、一勝が近いわけではない。

無名の公立校は十四回を戦って一勝をつかんだ。

伝説の剛腕は、一つの送球から夏を失った。

そして敗れた公立校は、一年後に同じ相手から一勝を取り返した。

甲子園の初戦は、学校の歴史も、選手の未来も知らない。

ただ、その日の白球が転がった方向だけで、勝者と敗者を分ける。

あの夏の白球は、今も心を走り続けている。

兵庫の甲子園初戦史に関するFAQ

Q1.なぜ「勝った初戦」に1979年の明石南対安積商を選んだのか?
明石南が春夏を通じて初めて出場した甲子園で、9回に同点へ追いつき、延長14回に5-4でサヨナラ勝ちした試合だからだ。現在まで明石南の夏の甲子園出場は1979年の一度だけで、この勝利が学校史上唯一の甲子園勝利となっている。
Q2.明石南は安積商戦でどのようにサヨナラ勝ちしたのか?
明石南は3-4の9回裏に1点を奪って同点とした。延長14回裏に一死二、三塁の好機をつくり、当時の試合回想ではスリーバントスクイズを決め、5-4でサヨナラ勝ちしたと伝えられている。
Q3.市神港は第一神港商時代にどのような実績を残したのか?
第一神港商は1929年と1930年の選抜高校野球大会で連続優勝した。市神港はその歴史を受け継ぐ古豪で、1968年夏は山口高志を擁して37年ぶり6回目の兵庫大会優勝を果たした。
Q4.山口高志は秋田市立戦で、なぜ崩れたのか?
5回一死一、二塁で投手ゴロを処理し、併殺を焦って二塁へ悪送球した。その間に二人の走者が生還した。山口は後年、その失策の後に気持ちを切り替えられなかったのかもしれないと振り返っている。試合は秋田市立が7-2で勝った。
Q5.明石商は八戸学院光星への2018年の敗戦を雪辱したのか?
2018年夏の初戦では、明石商が最大6点差を追いつきながら延長10回に8-9で敗れた。翌2019年夏の準々決勝で再び八戸学院光星と対戦し、今度は7-6で勝利。明石商は夏初のベスト4へ進んだ。

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使用した主な情報ソース

記録と表記について:
本文中の試合スコア、イニング、投手、本塁打および詳細記録は、朝日・日刊スポーツ高校野球大会アーカイブ、阪神甲子園球場公式記録、福島県高等学校野球連盟資料、NPB公式記録、神戸新聞、報道記事、ならびに提供された大会記録画面を照合して作成した。明石南対安積商の9回二死からの同点、延長14回のスリーバントスクイズについては、公開されている当時の試合回想・記録情報をもとに記述している。客観的に確認できる公式イニング記録は、明石南が9回に同点とし、延長14回にサヨナラ勝ちしたところまでである。

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