尾崎行雄とは何者だったのか|浪商で甲子園の時間を変えた“怪童”の正体
昭和36年の甲子園には、いまの球場にはもう残っていない匂いがあった。 焼けた土、白く乾いたベンチ前、アルプスから吹き下ろす紙吹雪の風。 その中で、浪商の背番号をつけた少年が腕を振ると、打者の時間が一瞬だけ止まった。
尾崎行雄。 浪商の“怪童”。
僕はこの名前を聞くと、数字より先に音が来る。 ミットの音ではない。 ずいぶん後になって、古いカセットテープで聞いたというNHKラジオ実況の音だ。 昭和36年夏の決勝、浪商対桐蔭。 最後の場面で、アナウンサーが息を切るようなテンポで叫ぶ。
「投げた、カーブ、空振り三振、試合終了!」
その言葉の速さ、間のなさ、実況が球に追いついていないような感覚。 それこそが、僕にとっての尾崎行雄の印象なのだ。
速球とは、ただ速い球のことではない。 見る者、聞く者の呼吸まで急がせてしまう球のことをいう。 尾崎行雄の剛速球は、昭和の甲子園の砂塵を巻き上げながら、いまも記憶の中を走っている。
尾崎行雄の原点|中学時代から忘れられなかった球
尾崎行雄の物語は、甲子園のマウンドから始まったわけではない。 その前に、大阪・泉大津の土がある。 尾崎は大阪府泉大津市に生まれ、泉大津の中学時代から、すでにただ者ではない球を投げていた。
この時代の尾崎を語るうえで、貴重なのが高田繁の証言だ。 のちに巨人V9の外野手となる高田は、浪商では尾崎の1学年下にあたる。 Number Webのインタビューで、高田は尾崎と中学時代にも対戦があったと語っている。 試合結果は覚えていない。 だが、尾崎のボールだけは忘れようがないほどすごかった。 そんな趣旨の回想を残している。
ここが、尾崎行雄という投手の怖いところだ。 普通、少年時代の記憶は、勝った負けたで残る。 何対何だったか、誰が打ったか、どちらが泣いたか。 ところが尾崎の場合、勝敗ではなく「球」だけが残った。 打者の記憶に、白球の軌道だけが焼きついた。
それはもう、投手というより現象に近い。 中学のグラウンドで投げているのに、すでに打者の中では甲子園のような圧があったのだろう。 高田が後年になっても忘れられなかったその球こそ、怪童・尾崎行雄の根っこだった。
尾崎の速球は、甲子園で突然生まれたのではない。泉大津の土の上で、すでに人の記憶を置き去りにしていた。
なぜ尾崎行雄は浪商へ進んだのか
尾崎が進んだ浪商は、きれいに整えられた名門というより、勝負の匂いが先に立つ学校だった。 大阪の高校野球には、昔から独特の荒っぽさがある。 口数より腕力。 理屈より勝負勘。 そのなかでも浪商は、土の上で相手をねじ伏せるような野球をする学校だった。
浪商は戦前から甲子園で名を上げた大阪の古豪であり、春夏に優勝歴を持つ名門だった。 のちに大体大浪商となるこの学校は、尾崎の時代にも大阪の野球少年にとって特別な響きを持っていた。 ただ強いだけではない。 浪商には、少し危うく、少し荒く、しかし勝負師を育てる空気があった。
尾崎がなぜ浪商を選んだのか。 その理由を本人の言葉で明確に示す資料は多くない。 ただ、彼の球質を考えると、浪商ほど似合う場所もなかった。 上品に磨かれるより、荒い石のまま光る。 尾崎の剛速球には、そういう学校の匂いがよく似合った。
尾崎にとって浪商は、単なる進学先ではなかった。 速いだけの少年を、甲子園の大観衆の前で“怪童”に変えるための土壌だった。
甲子園前の歩み|浪商入学直後から怪童だった
浪商に入った尾崎は、時間をかけて評価を上げたのではない。 入学と同時に、周囲の時間を乱した。
Number Webでは、尾崎が浪商1年春の練習試合で、岡山・琴浦高校を相手に4回1死から登板し、 9回2死まで16連続奪三振を記録した逸話が紹介されている。 さらに同じ日の午後、岡山東商戦に先発して18奪三振完封。 まだ高校に入ったばかりの少年が、1日のうちに相手打線を二度、三振の渦へ沈めたのである。
僕はこの話を読むたびに、少し背筋が冷たくなる。 高校1年生の春というのは、普通なら上級生の球拾いをしながら、グラウンドの空気を覚える季節だ。 だが尾崎は、空気を覚える側ではなかった。 彼がマウンドに立つと、空気のほうが尾崎に合わせて変わった。
「怪童」という言葉は、あとから新聞が飾りとしてつけたニックネームではない。 周囲がそう呼ぶしかなかった。 名前をつけなければ説明できないほど、尾崎の球は異質だった。
1年生だから将来性があったのではない。1年生の時点で、もう相手打者の現在を奪っていた。
昭和35年夏の甲子園デビュー|1年生エースの衝撃
昭和35年夏。 尾崎行雄は、1年生エースとして甲子園に現れた。
今なら、1年生が甲子園で投げるだけでも大きなニュースになる。 まして当時の高校野球は、上級生の力が絶対に近かった時代だ。 そのなかで尾崎は、浪商のエースとして甲子園の土を踏んだ。 まだ顔には少年のあどけなさが残っていたはずなのに、腕から放たれる球だけは、 すでに大人の打者の反応を奪っていた。
初戦の相手は愛媛の西条。 浪商は3対2で競り勝ち、尾崎は完投勝利を挙げる。 1年生が甲子園で勝つ。 その事実だけでも十分に鮮烈だった。
しかし、尾崎の物語が本当に動き出すのは次の試合である。 2回戦、法政二。 マウンドには柴田勲がいた。
柴田は尾崎より1学年上。 投打の中心として法政二を引っ張る存在だった。 この試合で浪商は0対4で敗れる。 尾崎は完投したが、法政二の壁を越えられなかった。
だが、この敗北がなければ、尾崎行雄の伝説はここまで濃くならなかった。 怪童は、最初から王者だったのではない。 柴田勲という壁にぶつかり、その壁の高さを知ったところから、尾崎の夏は深くなっていく。
宿命のライバル柴田勲|法政二との三度の対決
尾崎行雄を語るとき、柴田勲の名前を避けて通ることはできない。 それは単なる対戦相手ではない。 尾崎の高校野球人生に、意味を与えた名前だった。
昭和35年夏、法政二が勝った。 昭和36年春、また法政二が勝った。 そして昭和36年夏、三度目の対決が来る。
法政二は昭和35年夏、昭和36年春と甲子園を連覇していた。 昭和36年夏は、史上初の三季連続優勝を狙うチームだった。 その中心に柴田勲がいた。 尾崎にとって柴田は、倒すべき相手であると同時に、自分の存在を照らす鏡でもあった。
昭和36年夏の準決勝。 9回を迎えて、法政二が2対0とリードしていた。 浪商は追い詰められていた。 1死一塁から大熊忠義の打球が二ゴロとなり、併殺で終わるかと思われたが、二塁手が弾き、一塁に走者が残る。 住友平が中前打、前田周治が三塁線内野安打で続き、満塁。 そこで打席に立ったのが、5番・尾崎行雄だった。
投げる柴田。 打つ尾崎。 これ以上の舞台設定はない。
カウント2-2。 柴田のカーブを尾崎が叩く。 打球は三遊間を破り、2者が生還。 2対2。 浪商が土壇場で息を吹き返した。
柴田は後年、この場面を悔やむように振り返っている。 肩に疲労があり、投じたカーブが真ん中に入ってしまった。 そんな趣旨の証言が残っている。 つまり、尾崎はただ幸運に救われたのではない。 王者が限界に近づいた一瞬を、逃さず叩いたのだ。
そして延長11回、浪商は2点を勝ち越す。 この時点でスコアは4対2。 しかし、まだ試合は終わっていない。 最後の裏に、法政二が残っている。 そしてそこには、柴田勲がいる。
昭和36年夏|浪商を全国制覇へ導いた投球
昭和36年夏の浪商は、荒々しく、粘り強く、そして尾崎の右腕に導かれたチームだった。
1回戦は浜松商に1対0。 尾崎は完封勝利。 2回戦は銚子商に2対1。 またしても接戦を制する。 準々決勝では中京商を14対0で圧倒した。 そして準決勝で法政二を4対2。 決勝では和歌山の桐蔭を1対0で破った。
この勝ち上がりを見ると、浪商の優勝が決して派手な打撃だけでできたものではないとわかる。 1対0、2対1、4対2、1対0。 試合の芯には、いつも尾崎の投球があった。 打線が爆発した中京商戦を除けば、浪商の夏はほとんど尾崎の右腕の温度で進んでいる。
決勝の相手、桐蔭もまた、ただの挑戦者ではなかった。 旧制和歌山中の流れを汲む、和歌山高校野球の名門中の名門である。 旧制和歌山中は、1921年、1922年に夏の全国大会史上初の連覇を果たした古豪として知られる。 その歴史を背負った桐蔭を、浪商は1対0で沈めた。
決勝の桐蔭戦。 尾崎は3安打13奪三振で完封したと伝えられている。 1点のリードを、9回まで守り切る。 それも、夏の甲子園決勝で。
昭和の高校野球は、いまよりずっと粗く、ずっと生々しかった。 整備された映像も、細かな球速表示もない。 だからこそ、人々は目と耳で速さを記憶した。 打者が遅れる。 捕手のミットが鳴る。 スタンドが一拍遅れてどよめく。 尾崎の剛速球は、そういう記憶の中で伝説になっていった。
尾崎行雄の甲子園全登板記録
尾崎行雄の甲子園成績は、数字だけでも十分に異様だ。 ただし、この数字は冷たい記号ではない。 1年夏に初めて敗れ、2年春にまた敗れ、2年夏にすべてを取り返した足跡である。
尾崎行雄の甲子園全登板記録を見る
昭和35年夏・第42回全国高校野球選手権大会
| 試合 | スコア | 対戦相手 | 尾崎の投球 |
|---|---|---|---|
| 1回戦 | 浪商 3-2 西条 | 西条 | 完投勝利。6安打1奪三振。 |
| 2回戦 | 浪商 0-4 法政二 | 法政二 | 完投。8安打5奪三振。柴田勲との初対決に敗れる。 |
昭和36年春・選抜高等学校野球大会
| 試合 | スコア | 対戦相手 | 尾崎の投球 |
|---|---|---|---|
| 1回戦 | 浪商 8-0 日大二 | 日大二 | 完封勝利。6安打17奪三振。 |
| 2回戦 | 浪商 1-0 明星 | 明星 | 完封勝利。4安打14奪三振。 |
| 準々決勝 | 浪商 1-3 法政二 | 法政二 | 完投。5安打11奪三振。柴田勲に二度目の敗戦。 |
昭和36年夏・第43回全国高校野球選手権大会
| 試合 | スコア | 対戦相手 | 尾崎の投球 |
|---|---|---|---|
| 1回戦 | 浪商 1-0 浜松商 | 浜松商 | 完封勝利。9安打15奪三振。 |
| 2回戦 | 浪商 2-1 銚子商 | 銚子商 | 完投勝利。2安打18奪三振。 |
| 準々決勝 | 浪商 14-0 中京商 | 中京商 | 先発勝利。救援藤崎との完封リレー。 |
| 準決勝 | 浪商 4-2 法政二 | 法政二 | 延長11回完投。9安打9奪三振。三度目の対決で柴田勲を破る。 |
| 決勝 | 浪商 1-0 桐蔭 | 桐蔭 | 完封勝利。3安打13奪三振。浪商を全国制覇へ導く。 |
※上記は朝日・日刊スポーツ大会記録、スポニチ回想記事などをもとに整理。 一部の投球詳細は資料により表記差が生じる可能性がある。
尾崎行雄にとっての最高の一球|柴田勲という火種を消した三振
尾崎行雄の「最高の一球」はどれだったのか。
昭和36年夏準決勝、浪商対法政二。 9回表、尾崎は柴田勲のカーブを叩いて同点打を放っている。 二度敗れた相手に、打者として食らいつき、浪商の夏を土壇場でつないだ一球だった。
だが、名投手列伝として尾崎を書くなら、最高の一球はやはりマウンドの上に置きたい。 そしてスコアブックをたどると、延長11回裏にその場面がある。
11回表、浪商は2点を勝ち越した。 4対2。 甲子園の空気は、浪商へ傾いた。 けれど、法政二の夏はまだ終わっていない。 夏春連覇中の王者には、最後まで消えない火があった。
11回裏。 先頭の的場を三振。 続く五明が三塁失策で出塁。 一死一塁。 ここで打席に柴田勲が入る。
甲子園のざわめきが、少し低くなったはずだ。 二度、尾崎の前に立ちはだかった男。 法政二の絶対的支柱。 投げても打っても、チームの中心にいた柴田。 そのバットが一度火を噴けば、試合はまだわからない。
尾崎は、そこへ投げた。 上体を揺らすような独特の間合いから、白球を放った。 甲子園の乾いた土が、足元で小さく跳ねる。 捕手のミットへ向かうまでのほんの一瞬、三塁側の法政二ベンチも、一塁側の浪商ベンチも、息を止めていたに違いない。
結果は、三振。
この三振は、試合の最後のアウトではない。 そのあと4番・是久を左飛に打ち取り、試合は終わる。 しかし物語の上では、柴田から奪ったこの三振こそが決定的だった。 法政二の追撃の火種を、尾崎が自分の右腕で完全に消したからだ。
9回表には、柴田の一球を尾崎が打った。 11回裏には、柴田の一打を尾崎が封じた。 打って追いつき、投げて断ち切る。 こんな決着があるだろうか。
僕が選ぶ尾崎行雄の最高の一球
昭和36年夏準決勝・浪商対法政二、延長11回裏。
一死一塁、打席に柴田勲。
二度敗れてきた宿命の相手を、尾崎が三振に斬った一球。
それは、単なる奪三振ではなかった。 夏春連覇の王者・法政二に残っていた最後の熱を、浪商の怪童が砂塵の中で消し切った一球だった。
尾崎行雄の最高の一球は、球速表示の数字では語れない。 それは、宿命に投げ込んだ一球だった。 二度敗れた相手へ、最後の夏の延長11回裏に投げ込んだ、砂塵の中の一球だった。
決勝・桐蔭戦の余韻|耳に残る「カーブ、空振り三振」
準決勝で柴田を越えた尾崎は、決勝で桐蔭と向き合う。 スコアは1対0。 派手な打ち合いではない。 尾崎の右腕が、1点の重みを最後まで抱え込んだ試合だった。
そしてここで、僕の中に残るラジオ実況の記憶が重なる。 古いカセットテープで後年聞いたという、NHKラジオの音。 最後の打者に対して、アナウンサーがものすごいテンポで言う。
投げた、カーブ、空振り三振、試合終了!
この場面について、現時点で公式音源や詳細スコアによる最終球の確認は取れていない。 だから、この記事では記録としてではなく、記憶として残しておきたい。
なぜなら、その実況のテンポこそ、尾崎の球をよく物語っているからだ。 「カーブ」と言っているのに、ゆったりしていない。 むしろ、言葉が前のめりになる。 アナウンサーの舌が、投球の勢いに引っ張られている。
尾崎の速さとは、直球の速度だけではなかったのだと思う。 間合いが速い。 勝負が速い。 打者が考える前に、もう白球が来ている。 その感覚が、実況の中に残っていた。
記録としての最高の一球は、準決勝11回裏の柴田三振。 記憶としての一球は、決勝のラジオに残る「カーブ、空振り三振」。 この二つを並べたとき、尾崎行雄の輪郭はようやく浮かび上がる。 彼は記録の中にも、耳の奥にも残った投手だった。
右の尾崎、左の江夏|オールドファンが語り継ぐ速球の系譜
尾崎行雄の速球を語るとき、プロ野球のオールドファンのあいだでよく出てくる言い方がある。
右の尾崎、左の江夏。
もちろん、時代も球場も、映像の残り方も違う。 現代のように一球ごとに球速が表示され、回転数まで語られる時代ではなかった。 それでも、見た人の記憶には、尾崎の球が異様なものとして残った。
張本勲は、尾崎について「プロ野球の右投手で一番速いのは尾崎だった」という趣旨の証言をしている。 さらに、江夏豊の全盛期の低めから浮き上がってくるような球筋を引き合いに出し、尾崎にはそれが全部あったという意味のことまで語っている。 これは単なる後輩びいきでは片づけられない。 張本ほどの打者が、打席から見た球の質として尾崎をそう記憶していたことに意味がある。
もうひとつ、尾崎の球筋を考えるうえで面白い証言がある。 尾崎自身が、自分の球はよく伸びるため、捕手の膝を目がけて投げると、ちょうど真ん中の高さへ来るという趣旨の話をしていた、という回想だ。 これは科学的な球速表示ではない。 しかし、打者や捕手が感じた「浮く」「伸びる」という感覚をよく伝えている。
尾崎の投球フォームも、記憶に残るものだった。 張本のコラムでは、尾崎のフォームについて、オーソドックスなオーバースローでありながら、 投げる前に両手をだらりと下げて前後に揺らす独特の動作があったと紹介されている。 いわゆるロッキングモーションである。
その揺れは、ただの癖ではなかったのだろう。 打者からすれば、間を外される。 そして次の瞬間、白球が来る。 砂塵の向こうで上体が揺れ、腕が振られ、ミットが鳴る。 尾崎の速球伝説には、数字では測れない“間”と“揺れ”があった。
尾崎の球は、速かっただけではない。打者の目に浮き、耳に残り、記憶の中でさらに伸びた。
人間味のある尾崎行雄|怪童が少年に戻った瞬間
尾崎行雄は、記録だけを見れば怪物である。 1年夏から甲子園。 2年夏に全国制覇。 17歳でプロ入り。 1年目に20勝。 どう並べても、普通の野球人生ではない。
しかし、昭和36年夏の優勝後、尾崎が残した言葉には、怪童ではなく16歳の少年がいる。 スポニチの記事では、決勝後の尾崎が「うれしくて、うれしくて夢みたい」と語ったことが紹介されている。
この言葉がいい。 どれほど速い球を投げても、どれほど相手をねじ伏せても、優勝の瞬間に出てきたのは勝負師の言葉ではなかった。 夢みたい。 その一言に、尾崎の人間味がある。
怪童と呼ばれた少年も、甲子園の頂点に立った瞬間だけは、ただの高校生に戻ったのだ。 汗と砂にまみれ、何度も柴田に敗れ、やっとたどり着いた大旗。 その前で、尾崎は少し笑ったのだと思う。 あの豪速球の奥には、ちゃんと少年の胸があった。
だから尾崎行雄の物語は、ただ強いだけで終わらない。 怪童という言葉の中に、少年の震えるような喜びが残っている。 その二重写しが、尾崎を伝説にしている。
東映フライヤーズでの歩み|17歳の新人王と早すぎる引退
尾崎の物語は、甲子園優勝で終わらない。 むしろ、そこからさらに信じがたい速度で進んでいく。
昭和36年秋、尾崎は浪商を中退し、東映フライヤーズに入団する。 まだ17歳。 いまの感覚でいえば、高校2年生の少年が、そのままプロ野球のマウンドへ向かったようなものだ。
そして昭和37年、尾崎はプロ1年目で20勝を挙げ、新人王に輝く。 高校野球の怪童は、プロの打者を相手にしても怪童だった。 Number Webでは、尾崎と対戦した山内一弘が、球が速すぎて途中から消えるという趣旨の驚きを語ったと紹介されている。 プロの強打者にそう言わせる球。 それは、甲子園の伝説が誇張ではなかったことを示している。
NPB公式の個人年度別成績によれば、尾崎は東映・日拓で実働12年、通算107勝83敗、防御率2.70を記録している。 昭和40年には27勝を挙げ、最多勝にも輝いた。
だが、尾崎の炎は長くは続かなかった。 右肩の故障が、剛速球の投手生命を削っていく。 29歳で引退。 速すぎる球を投げた投手は、あまりにも早くマウンドを降りた。
ここに、尾崎行雄という投手の悲しさと美しさがある。 彼は長く燃えた投手ではない。 だが、短く燃えたからこそ、炎の色が濃かった。 プロの記録にも、高校野球の記憶にも、尾崎の名前はいつも少し熱を持って残っている。
尾崎行雄とは結局何者だったのか
尾崎行雄とは、結局何者だったのか。
僕はこう思う。 尾崎行雄とは、高校野球に“剛速球伝説”の匂いを残した投手だった。
江川卓が、未完の完成形として語られる投手なら、 尾崎行雄は、剛速球神話の原風景である。 もっと古く、もっと荒く、もっと土に近い。 砂塵が舞い、打者がのけぞり、スタンドが息を呑む。 その中心に、浪商の背番号をつけた少年がいた。
中学時代から忘れられない球を投げた。 浪商に入り、いきなり怪童と呼ばれた。 1年夏に甲子園で敗れ、2年春にも柴田勲に敗れた。 そして2年夏、三度目の法政二戦で自ら同点打を放ち、 延長11回裏には柴田を三振に斬り、決勝で桐蔭を1対0で沈めた。
その後、17歳でプロへ行き、20勝し、新人王になり、最多勝にもなった。 けれど肩を痛め、29歳で引退した。
長く咲いた花ではない。 でも、短く燃えたからこそ、尾崎の速球は記録より先に記憶へ届いた。
あの夏の甲子園で、尾崎行雄の球は、ただ捕手のミットへ向かったのではない。 打者の時間を奪い、浪商の歴史を動かし、法政二の夢を止め、 そして昭和の高校野球にひとつの匂いを残した。
砂塵が舞った。 白球が走った。 その向こうに、怪童がいた。
尾崎行雄の名を呼ぶと、甲子園の土が少し舞う。
それは、彼の剛速球がまだ、昭和の夏を走り続けているからだ。
FAQ|尾崎行雄と浪商に関するよくある質問
Q1. 尾崎行雄はなぜ“怪童”と呼ばれたのか?
浪商入学直後から驚異的な奪三振能力を見せ、1年夏には早くもエースとして甲子園に出場したためである。 球速だけでなく、打者の反応そのものを奪うような直球の質が異質だった。
Q2. 尾崎行雄は中学時代からすごかったのか?
高田繁の証言によれば、中学時代に尾崎と対戦した記憶があり、試合結果は覚えていなくても、 尾崎のボールだけは忘れられないほどすごかったという。 つまり、尾崎の怪童性は浪商入学後に急に生まれたものではなく、中学時代からすでに芽を出していた。
Q3. 尾崎行雄は甲子園で優勝している?
優勝している。 昭和36年夏、浪商の2年生エースとして全国制覇を果たした。 決勝では桐蔭を1対0で破り、尾崎は3安打13奪三振で完封した。
Q4. 尾崎行雄と柴田勲は何度対戦した?
甲子園で3大会連続対戦している。 昭和35年夏、昭和36年春は法政二の柴田が勝ち、昭和36年夏の準決勝で浪商の尾崎が初めて勝った。
Q5. 尾崎行雄にとって最高の一球は何だったのか?
本記事では、昭和36年夏準決勝、法政二戦の延長11回裏に柴田勲から奪った三振の一球を最高の一球と位置づけた。 二度敗れてきた宿命の相手を三振に取り、法政二の追撃の火種を消したという意味で、尾崎の物語上もっとも重い一球だった。
Q6. 決勝の最後はカーブで空振り三振だったのか?
そのように記憶されるラジオ実況の話はあるが、現時点で公式音源やスコアの詳細による確認は取れていない。 そのため本記事では、史実として断定せず、「記憶としての一球」として扱った。
Q7. 尾崎行雄はプロでどれくらい活躍した?
東映フライヤーズに入団し、1年目の昭和37年に20勝を挙げて新人王。 昭和40年には27勝で最多勝を獲得した。 NPB公式記録では、通算107勝83敗、防御率2.70を残している。
Q8. 「右の尾崎、左の江夏」と言われるのはなぜ?
昭和の速球投手を語るうえで、右投手の代表格として尾崎行雄、左投手の代表格として江夏豊を並べるオールドファンが多い。 張本勲は、尾崎をプロ野球の右投手で最も速かった存在として語り、江夏の全盛期の球筋を引き合いに出して尾崎の速球を評価している。
参考・情報ソース
本記事は、以下の公開資料・報道記事を参照して構成した。 尾崎行雄については、甲子園時代の詳細な一球ごとの記録が現在の公式データベースだけでは十分に確認できない部分もあるため、 確認できる事実、報道で確認できる証言、筆者の記憶として扱う部分を分けて記述している。
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Number Web「高校中退した“17歳の日本人”がプロ野球で圧倒…“史上最速ピッチャー”尾崎行雄の伝説」
浪商入学直後の16連続奪三振、18奪三振完封、法政二・柴田勲との3大会連続対決、昭和36年夏の浪商優勝などを確認。
https://number.bunshun.jp/articles/-/865261?page=1 -
Number Web「元巨人V9戦士・高田繁が語るMLBとの出会い」
高田繁が尾崎行雄と中学時代に対戦し、ボールのすごさが忘れられないと語った証言を確認。尾崎のルーツを描くうえで重要な証言として参照。
https://number.bunshun.jp/articles/-/862157?page=2 -
スポニチ Sponichi Annex「昭和の甲子園 真夏の伝説(4)宿命の対決 怪童・尾崎“3度目の正直”」
昭和36年夏準決勝・浪商対法政二の9回同点劇、尾崎の同点打、延長11回の右犠飛、決勝の桐蔭戦3安打13奪三振完封、優勝後の尾崎の言葉を確認。
https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/08/09/kiji/20220801s00001002463000c.html -
スポニチ Sponichi Annex「張本勲氏『プロ野球で一番速い』右腕を実名告白」
張本勲が尾崎行雄をプロ野球の右投手で最も速かった存在として語り、江夏豊の全盛期の球筋を引き合いに出して評価した証言を確認。
https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2025/03/12/kiji/20250312s00001173284000c.html -
週刊ベースボールONLINE「張本勲コラム 高卒のピッチャーの中で最高の素質を持っていた尾崎行雄」
尾崎の投球フォーム、ロッキングモーション、張本勲による素質評価に関する記述を確認。
https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?id=106-20200427-01&pid=column_detail -
Number Web「センバツ史上最強投手」尾崎行雄項目
尾崎の奪三振率、被安打率、防御率、WHIP、プロ入り後の速球評価、右肩故障と早期引退に関する整理を確認。
https://number.bunshun.jp/articles/-/861039?page=4 -
NPB.jp 日本野球機構 個人年度別成績 尾崎行雄
東映・日拓時代の年度別成績、通算107勝83敗、防御率2.70などプロ通算成績を確認。
https://npb.jp/bis/players/21523825.html -
朝日新聞・日刊スポーツ 高校野球 第43回全国高校野球選手権大会記録
昭和36年夏の浪商の勝ち上がり、準決勝・決勝スコア確認に使用。
https://smart.asahi.com/v/koshien/stats/summer/y1961.php
注意書き:本記事内の「決勝・桐蔭戦の最後のカーブ、空振り三振」という描写は、 筆者が後年に聞いたとするラジオ実況の記憶をもとにした叙述であり、 現時点では公式音源・公式スコアによる最終球の確認が取れていない。 そのため、史実として断定せず、記憶としての一球として記述した。 また、準決勝・法政二戦の延長11回裏に柴田勲を三振に取った場面についても、 球種・カウント・配球の細部は断定せず、スコアブック上の結果と試合文脈から描写している。

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