山形の高校野球には、長い間、一つの数字がついて回った。
7-29。
1985年夏。東海大山形が、桑田真澄と清原和博の3年夏を迎えたPL学園に喫した大敗である。
PL学園29得点。32安打。そして毎回得点。
2026年現在も、甲子園の1試合最多得点29は破られていない。毎回得点も、甲子園史上唯一とされる。
この一試合があまりにも有名になったため、いつしか「山形=甲子園で勝てない県」という古いイメージまで、このスコアが背負うようになった気がする。
実際、山形県勢は一勝をつかむまで長かった。
1973年。日大山形が鹿児島実を2-1で破り、県勢として夏の甲子園初勝利。全国大会14回目の挑戦だった。
滋賀が1979年に全国最後の夏初勝利を挙げるまで、山形もまた、全国で最後まで一勝を待った県の一つだった。
だから1985年の29失点は、単なる一試合の敗戦では済まなかった。
県議会で「なぜ勝てないのか」という趣旨の質問まで出たという。高校野球の一試合が、県全体のコンプレックスのように語られた。
そこから28年。
2013年。今度は日大山形が、優勝候補・日大三と初戦でぶつかった。
スコアは、7-1。
今度は、山形が勝った。
しかも、まぐれではない。力でねじ伏せた。
今回の山形編は、7-29から7-1へ。
その28年間を歩いてみたい。
勝った初戦は2013年の日大山形7-1日大三。初回、4番・奥村展征が2ラン。エース庄司瑞は西東京大会を1試合平均12.5得点で勝ち抜いた日大三打線を5安打1失点に抑え、150球完投。日大山形は先発全員安打の12安打、7回には一挙5点を奪った。この勝利は山形県勢にとって7年ぶりの夏勝利で、その後、作新学院、明徳義塾も破って県勢史上初のベスト4へ進んだ。
負けた初戦は1985年の東海大山形7-29PL学園。PLは8イニングすべてで得点し、史上初かつ現在まで唯一とされる毎回得点。29得点、32安打など当時の大会記録を次々と更新した。しかし東海大山形のエース藤原安弘は右肘に剥離骨折を抱え、痛みを隠して登板していた。敗戦後、山形県内では強化策が模索され、元日本生命監督・佐竹政和による巡回指導、中学生の硬式球練習、東北各県の独自リーグなどが進んでいった。
山形代表の「勝った初戦」|2013年・日大山形7-1日大三
庄司瑞が150球、5安打1失点完投。打線は先発全員安打の12安打。7回に5点を奪い、7-1。山形県勢7年ぶりの夏勝利は、「勝った」ではなく「圧倒した」と言いたくなる一戦だった。
日大山形対日大三|イニングスコア
| 学校名 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | 安打 |
| 日大山形 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 7 | 12 |
| 日大三 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 |
|
投手
日大山形:庄司 |
本塁打
日大山形:奥村 |
「山形は全国で置いていかれている」と言われていた
2013年の日大山形には、別の意味で重い空気があった。
2006年、日大山形は今治西との延長13回の死闘を11x-10で制し、山形県勢として初めて夏のベスト8へ進んだ。
ところが、その後が続かない。2007年から2012年まで、山形県勢は6年連続初戦敗退。
2013年の日大山形が甲子園へ来た時、山形県勢は全国49代表の中で最も夏の勝利から遠ざかっていた。
相手は日大三。西東京大会を1試合平均12.5得点で勝ち抜いてきた、優勝候補。
「また厳しい相手を引いた」――山形のファンがそう思ったとしても、不思議ではない。
初回、4番・奥村。いきなりバックスクリーン右へ
ところが一回表。日大山形が、いきなり試合を動かした。
二死三塁。4番・奥村展征。
日大三・大場の直球を振り抜く。打球はバックスクリーン右へ。
2ラン本塁打。
2-0。
しかもこれが、奥村にとって初めての甲子園、最初の打席だった。
さらに、この本塁打には家族の物語まである。奥村の父も、27年前に甲子園で本塁打を放っていた。
史上2組目の父子甲子園本塁打。
庄司瑞。前年秋はエースナンバーすら背負えなかった
この試合のもう一人の主人公が、エース右腕・庄司瑞だった。
庄司は、ずっと全国級のエースとして注目されていた投手ではない。
前年秋はエースナンバーを背負えなかった。当時の直球は最速120キロ台。
そして2013年3月、日大三との練習試合に先発し、6-8で負けている。
だから甲子園の一戦は、庄司にとってもリベンジだった。
一回裏、日大三の稲見に本塁打を浴びる。2-1。
あの強打の日大三。一気に来るかと思った。
でも庄司は、ここから崩れなかった。
140キロを超える直球。追い込んでからのスライダー。走者は出しても、決定打は許さない。
150球。5安打。1失点。完投。
優勝候補の打線を、文字通りねじ伏せた。
7回、一挙5点。「山形の打線」まで強かった
この試合が象徴的なのは、庄司だけで勝ったわけではないことだ。
日大山形打線は12安打。先発全員安打。
そして7回表、4連打を含む猛攻。一挙5点。
7-1。
そこには、後に阪神で日本一を経験する2年生・中野拓夢もいた。
この日、中野は2安打2打点。
日大山形7-1日大三。
「山形が強豪を食った」ではない。
僕には、山形の強豪が、全国の強豪に勝った試合に見える。
日大山形7-1日大三|詳細記録
| 学校名 | 打数 | 安打 | 打点 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 三振 | 四死球 | 犠打 | 盗塁 | 失策 | 残塁 |
| 日大山形 | 37 | 12 | 7 | 1 | 0 | 1 | 6 | 4 | 2 | 0 | 0 | 9 |
| 日大三 | 30 | 5 | 1 | 0 | 0 | 1 | 5 | 7 | 0 | 0 | 1 | 9 |
1985年。
東海大山形7-29PL学園。
2013年。
日大山形7-1日大三。
同じ「7」が、まるで別の意味に見える。
1985年の7点は、29点取られた中での7点だった。
2013年の7点は、優勝候補を力で倒した7点だった。
あいだに28年。
強化策があり、日大山形の2006年8強があり、酒田南や鶴岡東の台頭があり、山形中央も出てきた。
少しずつ、少しずつ、山形県勢は全国との距離を縮めた。
そして2013年。
「山形だから厳しい」ではなく、
「日大山形は強いから勝った」。
そう言える試合が来た。
僕にとって、7-1はそんなスコアである。
作新学院、明徳義塾。そして県勢初の4強
日大山形は、この一勝で終わらなかった。
3回戦、作新学院。5-2。庄司は6安打12奪三振、135球完投。
準々決勝は明徳義塾。3度先行され、そのたび追いつく。
8回、峯田の三塁打で3-3。奥村敬遠。5番・吉岡が決勝打。4-3。
庄司は159球完投。
そして、山形県勢史上初の夏ベスト4。
準決勝で前橋育英に1-4。それでも歴史は動いた。
1985年に「29点取られた県」として全国に記憶された山形が、2013年には「ベスト4まで行った県」になった。
山形代表の「負けた初戦」|1985年・東海大山形7-29PL学園
PL学園は8イニングすべてで得点し、29点、32安打。史上初の毎回得点、現在も残る1試合最多得点。だが29点の裏には、右肘を壊しながら投げた東海大山形のエースがいた。
PL学園対東海大山形|イニングスコア
| 学校名 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | 安打 |
| 東海大山形 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 7 | 9 |
| PL学園 | 2 | 5 | 4 | 3 | 6 | 2 | 5 | 2 | x | 29 | 32 |
|
投手
東海大山形:藤原 → 安達 |
本塁打
東海大山形:なし |
KK最後の夏。相手が悪すぎた
1985年夏。PL学園の桑田真澄、清原和博は3年生。1年夏から甲子園の中心にいたKKコンビにとって、最後の夏だった。
初戦の東海大山形戦で29-7。次の津久見を3-0、高知商を6-3、準決勝は甲西に15-2、決勝は宇部商に4-3でサヨナラ勝ち。
全国優勝。
東海大山形は、その王者の最初の相手だった。
2、5、4、3、6、2、5、2
PL学園の得点を、あらためて並べてみる。
2。5。4。3。6。2。5。2。
後攻だから、攻撃したのは8イニング。その8イニングすべてで得点した。
毎回得点。
当時の大会新記録が次々と並んだ。29得点、27打点、45塁打、32安打、笹岡の6安打、チーム打率.593。
「記録ずくめ」という言葉が、本当にそのまま当てはまる。
29点だけを笑ってはいけない。藤原の右肘は壊れていた
ただ、この試合を「PLが強すぎて、山形がボコボコにされた」で終わらせたくない。
東海大山形のエース・藤原安弘には、もう一つの事実がある。
右肘が壊れていた。
藤原は1年夏からエースとして投げ続けていた。3年夏の山形大会、右肘は痛み続け、ベスト8あたりからはこぶのように腫れた。
それでも当時は、簡単に「痛い」と言える空気ではなかった。七分袖のアンダーシャツで腫れた肘を隠して投げた。
甲子園入り後、病院、整骨院、指圧。できる治療はすべて試した。それでも肘には水がたまり、剥離骨折していた。
試合当日のブルペンが、山形大会決勝以来の投球だったという。
藤原本人の後年の回想では、肘が使えず、120キロも出なかった。変化球も投げられない。
それでもマウンドへ上がった。「自分が投げなければ」という使命感だった。
5回までに20失点。6回から右翼へ下がった。
29という数字の裏には、故障した右肘で投げ続けた高校生がいた。
この試合は、いまでも珍記録として語られる。
29点。32安打。毎回得点。
確かに数字はすごい。
でも僕は、藤原の話を知ってから、このスコアの見え方が少し変わった。
右肘は腫れ上がり、剥離骨折。それでも投げる。
「痛いから代えてください」と言える時代ではなかった。
今なら、そんな状態で投げさせること自体が問題になるだろう。
でも1985年の高校野球には、そういう時代の空気もあった。
だから7-29を笑い話だけにしたくない。
そのマウンドには、痛みを隠して投げた高校生がいた。
負け試合の向こう側を見ると、高校野球史は少し違って見える。
それでも9回に5点。最後まで試合をやめなかった
東海大山形も、ただ打たれて終わったわけではない。
3回に1点。8回に1点。そして9回表。
PLは大差をつけ、桑田はすでにマウンドを降りている。最後には清原まで登板した。
東海大山形は、その9回に5点を返した。
焼け石に水、と言えばそれまでかもしれない。
でも高校生にとって、29点取られているからといって9回表を投げるわけにはいかない。
最後まで打席へ立った。そして5点を取った。
7-29。
数字だけでは見えない意地も、このスコアの中にある。
PL学園29-7東海大山形|詳細記録
| 学校名 | 打数 | 安打 | 打点 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 三振 | 四死球 | 犠打 | 盗塁 | 失策 | 残塁 |
| 東海大山形 | 35 | 9 | 6 | 1 | 0 | 0 | 8 | 5 | 0 | 0 | 2 | 6 |
| PL学園 | 54 | 32 | 27 | 5 | 1 | 2 | 0 | 7 | 1 | 11 | 1 | 9 |
7-29が、山形を本気にさせた
この敗戦は、山形の中であまりにも大きかった。
当時の山形県高野連理事長は、試合後の大阪のホテルで眠れなかったという。
「朝が来るのが怖かった」
どんな報道をされるのか。県勢はどう見られるのか。高校野球の敗戦で、そこまで追い込まれる。
さらに山形県議会で、「なぜ山形は勝てないのか」という趣旨の質問まで出た。
そして、その悔しさは本当に強化策へつながっていった。
元日本生命監督・佐竹政和による県内巡回指導。
中学生の硬式球練習。
東北各県で独自リーグを増やし、実戦経験を積ませる。
いきなり結果が出たわけではない。でも、少しずつ「全国で戦うための準備」が積み重なった。
負け試合は、普通なら消したい。
7-29なら、なおさらだと思う。
でも山形は、この敗戦を「恥ずかしかった」で終わらせなかった。
なぜ全国で勝てないのか。何が足りないのか。
県高野連も、指導者も、地域も考えた。
もちろん2013年の4強を「1985年の敗戦のおかげ」と単純に言うつもりはない。
28年の間には、何世代もの選手と指導者がいる。
ただ、7-29が山形県に「このままではいけない」と思わせた象徴的な一日だったことは、かなり確かだと思う。
高校野球では、勝利が歴史を作る。
でも時には、大敗も歴史を動かす。
1973、1985、2006、2013|一勝が遠かった県が、全国4強へ
1973年。日大山形が鹿児島実を2-1で破り、県勢夏初勝利。全国大会14回目の挑戦だった。
1985年。東海大山形7-29PL学園。全国との差を、嫌というほど見せつけられた。
2006年。日大山形が開星、仙台育英、今治西を破り、県勢初の夏ベスト8。
準々決勝で敗れた相手は、斎藤佑樹の早稲田実。その早実が全国優勝する。
そして2013年。日大三、作新学院、明徳義塾を破り、県勢初のベスト4。
山形の高校野球が、突然強くなったわけではない。何十年もかけて、一つずつ壁を壊してきた。
そして今は、鶴岡東もいる
今の山形を見れば、もう「日大山形だけ」の県でもない。
鶴岡東。酒田南。山形中央。東海大山形。
県内の競争も厚くなった。
鶴岡東は2026年夏までに選手権9回出場、夏5勝。2019年には3回戦まで進んでいる。
もう「山形代表だから初戦で厳しい」という昔の見方では語れない。
1985年を知っている世代ほど、今の山形代表を見ると感慨があるのではないかと思う。
あの7-29から、ずいぶん遠くまで来た。
高校野球では、県のイメージがなかなか消えない。
昔強かった県は、しばらく負けても「強豪県」と呼ばれる。
昔勝てなかった県は、勝つようになっても「弱い県」と言われる。
山形も長い間、後者だったと思う。
でも2006年に8強。2013年に4強。
鶴岡東も甲子園で勝つ。日大山形も戻ってくる。
そういう結果が10年、20年積み重なると、昔の呼び方の方が現実に合わなくなる。
2013年の日大三戦は、その境目の一つだったように思う。
山形はもう、昔の7-29だけで語る県ではなかった。
まとめ|7-29から7-1へ
1985年。東海大山形7-29PL学園。史上唯一の毎回得点。1試合最多29得点。
山形にとって、消したくても消えない一日になった。
2013年。日大山形7-1日大三。
庄司5安打1失点完投。奥村先制2ラン。中野2安打2打点。先発全員安打。そして県勢初のベスト4へ。
同じ「7」という数字が、28年後にはまったく違う景色を映した。
一勝が遠かった県。29点を取られた県。
その山形が、全国の優勝候補を7-1で倒し、最後の4校まで残った。
県の野球史というのは、こうして少しずつ書き換わっていく。
東日本のしんがりに選んだ山形編。
僕には、この二つの「7」を並べるのが一番ふさわしいように思う。
山形の甲子園初戦史|よくある質問
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使用した主な情報ソース
朝日・日刊スポーツ高校野球大会アーカイブ|2013年 日大山形vs日大三
https://smart.asahi.com/v/koshien/game/2013/400/104885/index.php
日刊スポーツ|日大山形・庄司完投 強力打線ねじ伏せた
https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/p-bb-tp3-20130814-1173099.html
日刊スポーツ|日大山形・奥村、史上2組目の父子弾
https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/p-bb-tp3-20130814-1172968.html
日刊スポーツ|日大山形が初4強 山形の歴史変えた
https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/p-bb-tp3-20130820-1176075.html
日刊スポーツ|エース骨折隠し東海大山形29失点/山形1
https://www.nikkansports.com/baseball/column/kunikarakoko/news/201805150000027.html
日刊スポーツ|PL学園熱戦譜 1985年夏
https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/1678202.html
日刊スポーツ|2026年夏・甲子園主なチーム記録
https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/202608040000875.html
日刊スポーツ|東北悲願と山形の強化策
https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/202209050000143.html
日刊スポーツ|山形県に初勝利を届けた左腕
https://www.nikkansports.com/baseball/column/tohoku-koshien100/news/1470442.html
甲子園台帳|日大山形の甲子園出場記録
https://www.kokoshinro.com/school.php?name=%E6%97%A5%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%BD%A2
朝日・日刊スポーツ|鶴岡東 全国大会戦績
https://smart.asahi.com/v/koshien/hs/5/6029/index.php
