愛知県の甲子園史を振り返っていて、改めて思うことがある。
この県は、「初戦に勝つこと」があまりにも当たり前だった。
中京、東邦、名古屋電気、享栄。
時代によって勢力図は変わっても、愛知代表にはいつも、甲子園へ出れば簡単には帰らないという匂いがあった。
だからこそ、愛知の初戦を二つ選ぶなら、僕は対照的な二日を取り上げたい。
ひとつは1981年。
まだ全国的には現在ほど「名電」の名前が定着していなかった時代に、一人の左腕が甲子園へ現れた日。
もうひとつは2017年。
僕らが長い間、半ば当然のように思っていた「中京は夏の初戦では負けない」という景色が、58年ぶりに崩れた日である。
1981年|名古屋電気4-0長崎西――全国が「工藤公康」を知った日
1981年夏、第63回大会。
名古屋電気――現在の愛工大名電は、愛知ではすでに私学4強の一角だった。けれど、全国の高校野球ファンにとって、今のように「名電」という二文字だけで強豪の姿が浮かぶ時代では、まだなかったように思う。
その学校から、ひとりの左腕がやって来た。
工藤公康。
この名前を、日本中の高校野球ファンが一日で覚えることになる。
名古屋電気対長崎西|イニングスコア
| 学校名 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | 安打 |
| 名古屋電気 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 4 | 7 |
| 長崎西 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
|
投手
名古屋電気:工藤 |
本塁打
名古屋電気:山本 |
工藤は長崎西打線に、一本の安打も許さなかった。
ノーヒットノーラン。
しかも毎回の16奪三振。四球はわずか一つだった。
僕が今振り返っても、ストレート以上に印象深いのは、あの大きく落ちるカーブである。
打者の手元まで真っすぐ来るように見えた球が、最後にふっと視界から消える。
当時の高校生としては、何か違う種類の投手が突然甲子園に現れたような感覚があった。
名古屋電気はそのまま勝ち進み、ベスト4へ。工藤は大会4試合で56三振を奪った。
その後の224勝も、日本シリーズも、監督としての日本一も、もちろんこの日の僕らには知る由もない。
ただ、振り返れば確かにこの日だった。
「工藤公康」という長い野球人生を、全国の人が初めて見つけた日だった。
村瀬メモ:もし、中学校の用務員さんが替わっていなかったら
工藤の高校進学について調べていて、僕は思いがけない話にぶつかった。
工藤はもともと、家庭の事情から中学校を卒業したら就職するつもりだったという。
ところが中学3年のとき、学校に新しく赴任してきた用務員さんが、工藤の投げる球を見た。
その人は高校、大学、社会人で野球を経験し、各校の監督やコーチにも人脈があった。
「高校は決まっているのか」。そう声をかけたところから、話が動き始めたという。
高校へ行くつもりはない。けれど、お金がかからないのなら――。
家族と相談し、その用務員さんの縁で複数校の練習に参加した。
そして名古屋電気から「ぜひ」という話が届き、入学金と授業料の免除を受けて進学することになった。
つまり、名電が全国から「怪物」を探し出して連れてきた、という単純な話ではなかった。
たまたま学校へやって来た一人の大人が、一人の少年の球を見逃さなかった。
もしその出会いがなければ、1981年夏のノーヒットノーランも、その後のプロ通算224勝も、違った物語になっていたかもしれない。
高校野球の歴史は、こういう小さな出会いから動くことがある。
そして2026年春、長崎西が久しぶりにセンバツの甲子園へ帰ってきたときにも、1981年夏の工藤との一戦が再び語られた。
一方にとって伝説の始まりとなった試合は、もう一方の学校にも、長い時間を超えて残っている。
これもまた、「初戦」を振り返る面白さなのだと思う。
2017年|広陵10-6中京大中京――「中京が初戦で負ける」58年ぶりの夏
2017年8月11日。
中京大中京は、3回に伊藤康祐の本塁打などで2点を先行した。
5回を終えて2-0。
僕には、この時点ではいつもの中京の初戦に見えていた。
派手に圧倒するわけではない。けれど主導権を握り、気づけば最後には勝っている。
夏の中京には、長い間そういう安心感があった。
広陵対中京大中京|イニングスコア
| 学校名 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | 安打 |
| 広陵 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 4 | 0 | 10 | 15 |
| 中京大中京 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 6 | 13 |
|
投手
広陵:平元 → 山本 → 森 → 山本 |
本塁打
広陵:中村2、佐藤 |
ところが、6回だった。
5回まで広陵を抑えていた磯村から継投に入った直後、景色が変わる。
広陵の中村奨成が右翼席へ本塁打。
そして連打。
2-0だったスコアが、あっという間に2-3へひっくり返った。
甲子園という場所では、ときどきこういうことが起きる。
さっきまで完全に自分たちのものだった試合が、ほんの数人の打者、ほんの数球で、突然別の試合になってしまう。
広陵は7回に3点、8回にも4点。
そして中村は、この日2本目の本塁打まで放った。
後から振り返れば、この初戦こそが「中村奨成の夏」の始まりでもあった。
この大会で中村は本塁打を量産し、広陵は決勝まで進む。
だが僕がこの試合で何より驚いたのは、広陵の強さ以上に、別の事実だった。
中京が、夏の甲子園の初戦で負けた。
調べてみれば、中京大中京の夏の初戦敗退は1959年以来。
実に58年ぶりだった。
ただ、この「58年ぶり」という数字だけでは、中京の凄さはまだ十分に伝わらない。
1959年の夏に高鍋に敗れたあと、中京は1961年から、甲子園へ出るたびに初戦を勝ち続けた。
2015年まで、出場17大会連続初戦突破。
つまり、夏の甲子園で17連続初戦勝利を積み重ねていたのである。
しかも、その17という数字の中には、この学校そのものの歴史まで詰まっている。
中京商業から中京高校へ。
そして、中京大学附属中京高校へ。
校名が変わっても、「夏の初戦を勝つ」という一本の線だけは、半世紀以上にわたって切れなかった。
僕には、ここがいかにも中京らしく思える。
1967年から1995年までの「中京高校」の時代には、意外にも夏の全国優勝は一度もない。
けれど、その間に夏の甲子園へ出場すれば、初戦で帰ったことも一度もなかった。
優勝しなくても、弱くならない。
甲子園へ出れば、まず一つ勝つ。
それを何十年も続けることの方が、ひょっとすると一度の優勝以上に難しいのではないか。
僕ら昭和の高校野球を見てきた世代が、「そういえば中京が夏の初戦で負けるところなんて、見た記憶がない」と感じるのは、単なる思い込みではなかったのである。
そして2017年8月11日。
その長い歴史が、突然止まった。
しかも試合の入りは、むしろ中京大中京だった。
3回、伊藤康祐の本塁打などで2点を先行。
先発・磯村峻平も広陵打線を抑え、5回までは無失点だった。
僕なら、このあたりではきっと思っていた。
「やっぱり中京は、中京だな」
ところが6回から、甲子園の空気が一変する。
広陵の中村奨成が本塁打。
そこから広陵打線が一気に目を覚まし、6回3点、7回3点、8回4点。
あれほど長い間、初戦では崩れなかった中京が、押し切られていく。
だから僕には、この10-6というスコア以上に、試合終了後の景色そのものが異様に見えた。
中京が、初戦で甲子園を去っていく。
17連勝が止まった。
58年間続いた「中京が夏へ来れば、まず一つ勝つ」という景色が消えた。
長く高校野球を見ていると、こういう瞬間がある。
ずっと続くと思っていたものにも、終わる日は来る。
それもまた、甲子園なのだと思う。
村瀬メモ:17で止まっても、最後まで「中京」だった
それでも、この試合にはもう一つ、僕の好きな「中京らしさ」が残っている。
8回を終えて3-10。
普通なら、もう勝負は決まったように見える。
だが9回、中京大中京はそこから3点を返した。
主将の伊藤康祐も適時打を放ち、最後まで広陵を追いかけた。
4番・鵜飼航丞も終盤に安打を重ねた。
試合後には、自分たちの力は出し切ったという思いと、自分がもっと打てていればという悔しさの両方を口にしている。
17連勝は止まった。
58年ぶりに、初戦で負けた。
それでも最後の最後まで、簡単には終わらない。
勝ち続けた歴史だけではない。負ける時にさえ粘る。
僕にはそこにも、長年見てきた「中京」が、確かに残っていたように思える。
【番外編】1989年――春の王者・東邦が消えた同じ日に、春に泣いた上宮が走り出した
愛知の「忘れられない初戦」をもう一つだけ挙げるなら、1989年の東邦も外せない。
この年の春、東邦はセンバツ決勝で上宮を破って優勝した。
あの決勝を覚えている人なら、上宮があと一人まで追い込んでいたことも忘れられないだろう。
延長10回。あとアウト一つ。
そこから東邦が追いつき、最後は守備の乱れも絡んで逆転サヨナラ。
元木大介らを擁した上宮にとっては、あまりにも残酷な準優勝だった。
そして迎えた平成最初の夏。
開幕日の甲子園で、春の王者・東邦は倉敷商に1-2で敗れる。
ところが、その同じ日の後の試合に登場した上宮は、丸子実を10-3で破った。
春に頂点へ立った学校が夏の初日に消え、春にあと一人で頂点を逃した学校が、その同じ日に再び歩き始める。
甲子園という場所は、こういう巡り合わせを平然と作ってしまう。
村瀬メモ
「春夏連覇」という言葉には華やかさがある。
けれど、その挑戦は夏の最初の一日で、あっけなく終わることもある。
一方で、春に泣いた学校にとっては、その夏がやり直しの舞台になる。
1989年8月9日は、その二つの物語が同じ甲子園で交差した一日だった。
初戦には、その後の野球人生まで映り込むことがある
1981年、工藤公康のノーヒットノーラン。
2017年、中京大中京の58年ぶりとなる初戦敗退。
そして1989年、春の王者・東邦が夏の最初の試合で姿を消した日。
数字だけ並べれば、それぞれ一試合の勝敗にすぎない。
けれど、少し人の側へ寄ってみると、まるで違うものが見えてくる。
高校へ進学する予定すらなかった少年を見つけた、一人の用務員さん。
58年間続いた伝統の向こう側で、最後まで反撃をやめなかった選手たち。
春に笑った学校と泣いた学校が、数カ月後には立場を変えて甲子園に戻ってくる。
だから僕は、初戦が好きなのだと思う。
その時にはまだ誰も知らない「その後」が、すでにそこから始まっている。
甲子園の初戦とは、そんな場所でもある。
FAQ
Q. 名古屋電気は現在の愛工大名電ですか?
はい。1981年当時は名古屋電気高校で、現在の愛知工業大学名電高校です。工藤公康のほか、その後もイチローら数多くの野球選手を輩出しています。
Q. 工藤公康はなぜ名古屋電気へ進学したのですか?
工藤本人の回想によれば、家庭の事情から当初は高校へ進まず就職する予定でした。中学3年時に赴任した学校の用務員が工藤の投球に目を留め、野球関係者へつないだことが転機となりました。複数校の練習に参加した後、名古屋電気から誘いを受け、入学金と授業料の免除を受けて進学しています。
Q. 2017年の中京大中京は本当に58年ぶりの夏の初戦敗退だったのですか?
はい。広陵に6-10で敗れた2017年の初戦敗退は、1959年以来58年ぶりでした。長く甲子園を見てきた世代が「中京が夏の初戦で負けるのは珍しい」と感じるのには、はっきりとした数字の裏付けがあります。
Q. 2017年の広陵・中村奨成はこの試合で本塁打を打っていますか?
はい。中村は中京大中京戦で2本塁打を放っています。その後も本塁打を重ね、広陵は決勝まで進出。この初戦は、中村の存在が全国に大きく広がっていく夏の出発点にもなりました。
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参考文献・情報ソース
- 朝日新聞・日刊スポーツ「夏の甲子園」大会記録・試合記録
- J:COM 高校野球 二宮清純コラム「甲子園ノーヒッター 名電・工藤公康」
- マイナビニュース「工藤公康『高校には行かず就職する予定だった』“運命の出会い”が転機に」
- デイリースポーツ「中京大中京58年ぶり聖地初戦敗退」
- 日刊スポーツ「広陵 対 中京大中京」試合記録
- 朝日・日刊スポーツ「1989 第71回全国高校野球選手権大会」
本記事は大会記録、報道記事、公開資料などを参照しながら、筆者自身の高校野球観戦の記憶や印象を交えて構成しています。試合の記録・スコアについては可能な限り複数資料で確認していますが、当時の空気感や心象に関する記述には筆者の回想・解釈を含みます。

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