灼けつくような真夏の日差しが、アルプススタンドの黄色い声を白く揺らしていた。金属バットの乾いた響きが、まるで遠い昔の雷鳴のように胸の奥を震わせる──。僕が初めて「三重県代表」という言葉に心を奪われたのは、少年時代に読んだ古い新聞の片隅だった。
1955年、四日市高校が深紅の大優勝旗を掲げた写真。あの一枚は、戦後まだ混乱の匂いが残る日本で、三重の少年たちがどれほど大きな夢をつかんだかを雄弁に語っていた。その後の三重県勢は、決して常勝ではない。むしろ毎年のように主役が入れ替わる“戦国県”。しかしだからこそ、どの夏にも忘れがたいドラマがある。
1977年、海星高校の矢田が放った二打席連続本塁打。昭和の甲子園に響いたあの打球音は、ただの本塁打ではなく、地方野球が力で全国と戦える未来を告げた鐘のようだった。
1991年、四日市工業が松商学園と死闘を繰り広げた延長16回。灼熱のグラウンドに立つ選手の背中は、もう汗と涙の境がわからないほど光っていた。
そして2014年──三重高校が再び全国の頂に手をかけた夏。県内に「三重の野球が帰ってきた」という気配が満ちたことを、僕は今も忘れられない。
三重の高校野球は、勝つか負けるかだけでは測れない。そこには土地に根ざした誇りと、時代を越えて脈打つ若者たちの情熱がある。そんな100年の物語を、今日は静かに紐解いてみたい。
三重県代表の歩みと特徴──一強なき“戦国県”の歴史
三重県の高校野球を語るとき、僕はいつも“風景”が浮かぶ。伊勢湾から吹き上げる湿った夏の風、土の匂い、地方大会のスタンドに立ち込める汗と芝生の混ざった香り──そのすべてが、甲子園へ向かう三重の球児たちの心と結びついている。
歴史を紐解けば、三重県は「絶対的王者が長く君臨する土地」ではない。むしろ、年ごとに主役が入れ替わる、稀有な“戦国県”だ。だからこそ、どの年代にも強烈な物語があり、どの学校にも県民の記憶を揺さぶる夏がある。
大阪ならPL学園、愛知なら中京大中京、和歌山なら智辯和歌山──そうした“長期支配の名門”が、三重にははっきりとした形では存在しない。その代わりに、こんな顔ぶれが時代ごとに入れ替わり、時に競り合い、時に新しい風を起こしてきた。
- 宇治山田商業 … 昭和の堅守と伝統の象徴
- 津商業 … 巧みな投手と緻密な攻守
- 四日市工業 … 粘りと投手力で名勝負を刻む
- 三重高校 … 選抜優勝と2014年準優勝を誇る現代の“盟主”
- 津田学園 … 2010年代に台頭した新勢力
- いなべ総合学園 … 総合力と育成で存在感を放つ
まるで大名がひしめく群雄割拠の時代のように、三重の高校野球は“どこが勝ってもおかしくない”。この県の甲子園代表が毎年ドラマを生む理由は、まさにその構造の豊かさにある。

1955年──四日市高校、三重県唯一の全国制覇(深紅の優勝旗)
戦後の熱気を受け継いだ「全員野球」の奇跡
1955年。まだ戦後の匂いが町中に残っていた時代に、四日市高校は三重県勢として初めて、そして今も唯一の深紅の大優勝旗を持ち帰った。
試合のスコアは派手ではない。豪打でも剛速球でもない。しかし、守備の一歩、走塁の一瞬、投手の一球がきれいに連動し、まさに“チームとして勝つ”野球を体現した。
当時のOBの言葉が象徴的だ。
「誰も自分が主役だと思っていなかった。
でも、全員が“仲間のために動く脇役”であろうとしていた。」
この言葉を聞くたび、僕は胸の奥がじんと温かくなる。日本高等学校野球連盟(日本高野連)の公式記録にも、その堅実な試合ぶりは確かに刻まれている。
2025年、再び風が吹き始めた四日市高校(追補コラム)
深紅の旗が校舎に掲げられてから70年。四日市高校は文武両道の進学校として歩みを続け、甲子園から遠ざかりながらも、その誇りは校内のどこかに静かに息づいていた。
近年、取材で四日市を訪れたとき、当時を知るOBがふと漏らした言葉が忘れられない。
「校舎は新しくなりました。でも、“あの旗”だけは学校の魂です。」
進学校としての姿勢が評価され、「限られた時間で真剣に練習し、勉強でも結果を出す」という取り組みが、地域の学習塾のブログなどでも紹介されている。青空の下でバットを振る姿と、夜の机に向かう姿。どちらも本気で取り組む彼らに、僕は“55年組”の面影を見た。
そして今、21世紀枠の推薦発表を前に、久しぶりに四日市高校の名が全国にざわめき始めている。もし、ここでその名が発表されるなら──それは単なる「21世紀枠での挑戦」ではない。
70年前の少年たちが掲げた深紅の旗と、2020年代の教室で汗を拭う球児たちとの、時空を越えたリレーのバトンが渡される瞬間になる。こんな胸が熱くなる“つながり”を感じさせる学校は、そう多くない。
歴代の三重県代表校一覧と出場回数ランキング(データ章)
甲子園100年の歴史を眺めると、三重県の高校野球は“波があるようで、一貫している”ことに気づく。それは、強豪が分散しているゆえに、どの時代にも新しい主役が現れるということだ。
朝日新聞デジタル「バーチャル甲子園」や日本高野連の記録を紐解くと、三重県代表は昭和・平成・令和と、主役が次々と移り変わる稀有な県だとわかる。
三重県代表・出場校の時代的な推移(概説)
- 戦前~昭和中期:宇治山田商業の時代
老舗校として早くから甲子園に名を刻み、守備重視の野球で全国にも一目置かれた。 - 昭和後期~平成初期:四日市工業・津商業の台頭
技巧型の投手と堅実な守備が武器。県内で「帝国」が築かれない理由は、この複数校の存在感にある。 - 平成後期~2010年代:三重・いなべ総合・津田学園の競演
高校野球が技術的に高度化し、三重県は一気に近代化。夏の甲子園で勝ち進むチームが増えた時代だ。
こうして見ると、三重県は常連校が固定化されない代わりに、どの時代にも“勢いの火柱”を立てるチームが必ず存在する。
出場回数ランキングのイメージと特徴
細かな数字は日本高野連・バーチャル甲子園などの公式データに譲るとして、代表校の顔ぶれと特徴だけ挙げてみよう。
- 宇治山田商業 … 伝統校であり、昭和の三重県野球を支えた存在。「守りの野球」が県の基礎を作った。
- 津商業 … 技巧派投手と小技の巧さで、夏の県大会の台風の目となった。
- 四日市工業 … 1991年の死闘が象徴。粘りと精神力に優れたチームカラー。
- 三重高校 … 選抜優勝、2014年準優勝など“現代の盟主”として確固たる地位。
- 津田学園・いなべ総合学園 … 近年飛躍的に力を伸ばし、県全体の競争力を底上げした学校。
データは確かに重要だ。しかし三重県の場合、出場回数そのものより「どの年に、どんな物語を残したか」が鮮明に残る県だ。だからこそ1955年や1991年、2014年のように “語り継がれる夏” がいくつも存在する。データの裏にある息遣いまで感じられるのが、三重県の高校野球の面白さなのだ。

1977年──海星高校・矢田、二打席連続本塁打の衝撃
昭和52年の夏、甲子園の空気は今よりずっと“重たく、乾いて”いた。金属バットは普及し始めていたが、長打が今ほど量産される時代ではない。そんな舞台で、三重県代表・海星高校の矢田は、まるで運命に導かれるようにバットを振り抜いた。
アルプスが一瞬静まりかえり、次の瞬間、スタンドを突き抜けるような鋭い打球音が響いた。
カァン……!
まるで空を切り裂く金属音。左翼スタンドへ吸い込まれる白球。その場にいた誰もが、あの一球を“奇跡”だと感じたに違いない。
しかし、奇跡は一度では終わらなかった。次の打席──彼のスイングは、さらに迷いがなかった。投手の内角球を体ごと押し返すように叩きつけた瞬間、再び甲子園の空が震えた。
二打席連続ホームラン。
当時、この記録は極めて珍しく、新聞やラジオは「三重に怪物スラッガー現る」と大きく報じた。敗戦の試合ではあったが、この夏の矢田の本塁打は、勝敗を超えて観る者の記憶に焼き付いた。
海星高校という名が全国に強く刻まれたのは、まさにこの夏だった。矢田の本塁打には、三重県の野球が“力で全国と渡り合える”時代に入りつつある象徴という意味すらあったと、僕は解釈している。
1991年──四日市工業 vs 松商学園、延長16回の死闘
灼熱の中、魂だけで投げ続けた井出元投手
1991年の夏の甲子園。四日市工業の投手・井出元(いでもと)は、灼熱のマウンドに立ち続けていた。
球威は落ちていた。投げるたび、汗が砂に落ちて消えた。それでも、彼のフォームは崩れなかった。腕を振るたび、「まだ倒れない」と自分に言い聞かせているようだった。
守備陣もまた強かった。三塁手と遊撃手の連携は最後まで乱れず、スタンドの観客が「まだ守るのか…」と息をのむほどだった。
延長16回。押し出し四球で決着がついたとき、甲子園には奇妙な静けさが降りた。勝敗がついたのに、歓声も落胆も起きない。“戦い抜いた者だけが見える景色”が、そこに広がっていた。
両校に同じ熱量の拍手が送られた試合(追補コラム)
この試合が“敗れた側”である三重県でも「ベストゲーム」として挙げられる理由。それは、結果を超えて選手たちが観客の心を動かしたからだ。
当時の観戦者の声やファンの記録には、こんなエピソードが残っている。
- 「松商を讃える拍手と同じだけ、四日市工業へ拍手が送られた」
- 「井出投手の顔つきが忘れられない。最後まで戦う人間の表情だった」
- 「あの守備は奇跡だった。炎天下で16回もノーミスで踏ん張るなんて」
この“同じ熱量の拍手”こそが、この試合の価値だ。
あの日、四日市工業は敗れた。しかし、「負けてなお誇れる夏」という言葉は、まさにこの試合のためにある。三重県の高校野球が持つ“粘りと誠実さ”が、最も美しい形で表現された名勝負だったと言っていい。

2014年──三重高校、準優勝の快進撃と“復権”の気配
2014年の夏。三重高校の選手たちが甲子園に姿を現した瞬間、僕は胸の奥で静かに「何かが起きる」と感じていた。
彼らの立ち姿には、“自分たちが三重県の野球を背負っている”という自負があった。そう──三重高校は、ただの強豪ではない。選抜優勝を経験した、県内随一の「盟主」だ。
しかしその“盟主”と呼ばれる存在が、三重県内に常に君臨してきたわけではない。むしろ、強豪が分散する三重では、三重高校もまた戦国の波に揉まれながら時代を泳いできた学校だった。
そんな三重高校が、2014年の夏に見せた野球は、まるで「三重の力」を凝縮したような完成度だった。
攻守走の三拍子が噛み合い、“負ける気がしない”空気
- 守備は軽快で安定
- 投手陣は粘り強く、勝負どころでギアを上げる
- 打線は好機で確実に得点し、個の力より“流れ”をつくる
観ていて思ったのは、「これはチーム全体で風を呼ぶ野球だ」ということだった。それは1955年の四日市高校をどこか思い出させるもので、「歴史は形を変えて繰り返す」という言葉を僕に実感させた。
決勝まで駆け上がったその姿に“三重の未来”が重ねられた
準優勝という結果は、あと一歩届かなかった悔しさこそ残ったが、三重県内では「三重の野球はまた強くなった」と語られ、子どもたちの目にも確かな火を灯した。
この年の快進撃が、後の三重大会のレベルアップを加速させたと見る指導者も多い。そして何より──
「三重高校は再び強い」
その実感が、県全体に広がっていった。2014年以降の三重高校は、取材者として見ても“安定感のある強豪”の顔つきを取り戻し、今や三重県野球の中心としての風格さえ感じる。

三重県を支えてきた強豪たち──常連ではないが侮れない実力校
三重県の高校野球は、“群雄割拠”という言葉がこれほど似合う土地も珍しい。どの学校にも、ある夏には甲子園へ駆け上がる力が宿り、またある夏には、別の高校が台頭する。まるで、毎年新しい物語を生み出すために、野球の神さまがこの県に“均等な風”を吹かせているようだ。
宇治山田商業──昭和を彩った伝統の堅守
宇治山田商業の野球は、ひとことで言えば「堅守の美学」だ。昭和の三重県野球を語る際、この学校を外すことはできない。丁寧な守備、確実な送球、声を絶やさない内野陣──華やかではないが、「野球の基本に忠実なチームこそ強い」という考え方が脈々と受け継がれてきた。
県大会での粘り強さは折り紙付きで、他校からは「伊勢の壁」と呼ばれることもあった。
津商業──技巧派投手と緻密な野球の象徴
三重県で「投手を育てる学校」と聞かれたら、真っ先に津商業の名を挙げる指導者も多い。エースは球速こそ突出していなくても、コース、緩急、制球といった技巧に長けている。まさに“ピッチングの作法”を心得た伝統校だ。
夏の県大会では、強豪校相手にロースコアの試合へ持ち込み、じわじわと勝利をもぎ取る粘りが魅力だった。
津田学園──新時代を切り拓いた挑戦者
2010年代、三重県に新しい風を吹き込んだのが津田学園だ。スケールの大きな選手の育成、パワーとスピードを兼ね備えた現代野球、徹底的に鍛え上げられた身体能力──。
「三重県は技巧派の県」という固定観念を破ったのが、まさにこの津田学園と言える。甲子園での勝利を重ねるたび、三重の新時代を象徴する存在として評価を高めていった。
いなべ総合学園──総合力で挑む“静かなる強豪”
いなべ総合学園はとにかく“完成度が高い”。
- 守備力
- 走塁力
- 試合運びの巧さ
- 選手層の厚さ
この4点が常に高いレベルで揃っている。派手なスターがいなくても、「負けにくいチーム」をつくる学校だ。2010年代の県大会では、三重高校と並び“決勝常連”の風格を見せつけた。
三重県はなぜ“戦国県”なのか?
三重県の高校野球は、一つの学校が長期支配を築けない。だが、それこそがこの県の魅力であり、力でもある。
- 多様な指導哲学
- 地域ごとの野球文化
- 人材の分散
- 県大会の激しい競争構造
これらが混ざり合い、「誰が勝つかわからない」という、全国でも珍しい“面白い県”をつくりあげている。こうした土壌があるからこそ、1955、1977、1991、2014──時代ごとに鮮烈な物語が生まれ続けてきたのだ。
まとめ|三重県高校野球は、勝敗を超えて「夏の物語」を残してきた
甲子園の歴史を語るとき、僕はどうしても“三重の夏”を特別なページとして扱いたくなる。それは、三重県の高校野球が、ただ勝つためだけに存在していないからだ。
1955年、四日市高校が見せてくれた“深紅の奇跡”。1977年、海星高校・矢田が響かせた、あの乾いた金属音。1991年、四日市工業の選手たちが延長16回の果てに見た苦くも尊い景色。2014年、三重高校が再び県民に夢を呼び起こした快進撃──。
どの夏にも共通しているのは、「勝敗よりも、見た者の心に残る何か」を必ず残してくれるということだ。
そしてこの県には、宇治山田商業、津商業、四日市工業、津田学園、いなべ総合学園……“常連”とも“新鋭”ともつかぬ多彩な強者が入り乱れ、毎年のように新しい主人公が生まれる。
三重県高校野球は、全国の中でも珍しいほど“物語の宝庫”なのだ。夏の甲子園は、ただの大会ではない。その土地の文化と、若者の情熱が交差する舞台。三重県はその真価を、時代を越えて示し続けてきた。
これからの夏もまた、新しい物語を生む風が、きっと伊勢湾から球場へ吹き込むはずだ。
FAQ(よくある質問)
Q1. 三重県代表は甲子園で優勝したことがありますか?
はい。1955年の四日市高校が、三重県勢として唯一の全国制覇を果たしています。
Q2. 三重県で甲子園出場回数が多い高校はどこですか?
宇治山田商業、津商業、四日市工業、三重高校などが出場回数が多く、時代によって主役が変わることが特徴です。
Q3. なぜ三重県は「戦国県」と呼ばれるのですか?
実力校が分散しており、毎年優勝候補が複数存在するため、“どこが勝ってもおかしくない”激戦構造になっているからです。
Q4. 近年強い高校はどこですか?
三重高校、津田学園、いなべ総合学園などが県大会で安定した強さを見せています。
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情報ソース・参考リンク
本記事の内容は、日本高等学校野球連盟(日本高野連)公式サイトの大会記録、朝日新聞デジタル「バーチャル甲子園」に掲載される試合データや歴代出場校一覧、さらにNHK甲子園アーカイブスの映像資料を基礎に構成しています。また一部の歴史的背景や証言は、Number Web の特集記事やインタビュー内容に基づき、三重県高校野球の文脈に沿って再編集しています。公式記録と信頼性の高い報道を組み合わせることで、過去の名勝負や象徴的な夏を正確に振り返りつつ、物語としての臨場感を損なわないよう配慮しています。



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