岐阜代表の甲子園史を辿ろうとすると、僕はいつも同じ校名に戻ってきてしまう。
昭和のアルプス席、土埃と汗の匂いが混じるあの空気の中で、何度も耳にした名前――岐阜商業高校だ。
岐阜県は、決して全国屈指の常勝県ではない。
だが、甲子園という舞台で、時代ごとに確かな足跡を残してきた。
その中心に、いつも岐阜商があった。
第1章|甲子園における「岐阜代表」とは何者か
甲子園に出場するということは、単に地方大会を勝ち抜くことではない。
その県の野球観、育成、時代背景――すべてを背負って、全国の前に立つということだ。
岐阜代表の歴史を見渡すと、商業高校、進学校、私学と、主役は時代ごとに移り変わってきた。
だが、不思議なことに、語りの基準点となる学校はほとんど変わらない。
岐阜商業高校。
この学校を抜きにして、岐阜の甲子園史は成立しない。

第2章|岐阜商業高校、すべてはここから始まった
岐阜商の名が全国に刻まれたのは、昭和初期だった。
1932年、選抜大会に初出場。
その直後、伝説の左腕・松井栄造が現れる。
1933年、1935年。
岐阜商は選抜大会で二度の優勝を果たす。
松井の投球は剛球ではなかった。
緩急と制球、そして打者の呼吸を読むような投球だったと、当時の新聞は伝えている。
1936年夏。
第22回全国高等学校野球選手権大会。
岐阜商は、夏の甲子園に初出場し、初優勝を成し遂げる。
全試合、圧倒的だった。
この夏、岐阜商は「黄金時代」という言葉を、自然に手に入れた。
だが、その左腕は、やがて戦火に消える。
太平洋戦争。
松井栄造は出征し、帰らぬ人となった。
岐阜商の黄金時代が、二度と戻らなかった理由の一端は、
この左腕の喪失にあったのかもしれない。
第3章|夏の頂点は一度、それでも語り継がれる理由
岐阜商の夏の全国制覇は、1936年の一度だけだ。
それでも、1938年、1947年、1956年と三度の準優勝がある。
勝ち切れなかった夏が、岐阜商を「語られる学校」にした。
敗戦の夏にこそ、物語は宿る。
岐阜商は、その典型だった。

第4章|春のセンバツ、岐阜商は常に主役だった
春の選抜大会では、岐阜商はさらに存在感を放つ。
- 選抜優勝:1933年・1935年・1940年
- 準優勝:1939年・1956年・1959年
1959年。
左腕・清沢忠彦を擁し、春夏連続準優勝。
頂点には届かなかったが、清沢は甲子園を去らなかった。
引退後、高校野球の審判として長く甲子園に立ち続け、
「名物審判」として知られる存在になる。
選手として届かなかった場所に、
審判として立ち続けた人生。
それもまた、岐阜商が生んだ甲子園の物語だった。
第5章|受け継がれたもの――そして2025年へ
私学全盛の時代。
県立校が甲子園で勝ち上がることは、容易ではない。
その現実に真正面から挑んだのが、岐阜商OBの鍛冶舎巧だった。
熊本の秀岳館を全国屈指の強豪へと育て上げた指揮官は、
最終的に母校・岐阜商へと戻ってきた。
守備、走塁、状況判断。
派手さはないが、試合終盤になっても崩れない。
その“体質”は、鍛冶舎の時代に形作られた。
2024年、鍛冶舎は勇退する。
後を託されたのは、藤田監督だった。
2025年夏。
県岐阜商は、春夏連覇を狙う横浜を、延長11回の末に打ち破る。
指揮を執っていたのは藤田監督だった。
だが、グラウンドに立っていた選手たちの多くは、
鍛冶舎の時代に鍛えられた球児たちだった。
あの勝利は、新体制の成果であると同時に、
鍛冶舎巧が母校に残した野球の総決算でもあった。
指導者は去っても、教えは残る。
それが学校の野球になる。

岐阜に流れる、もう一つの血脈――サウスポーの系譜
岐阜の甲子園史を丁寧に辿ると、ある共通点が浮かび上がる。
要所に、左腕が立っているのだ。
松井栄造。
戦後の岐阜高・花井。
1970年、岐阜短大付の湯口。
そして清沢忠彦。
速さよりも、間。
力よりも、制球。
岐阜という土地は、そういう投手を必要としてきたのかもしれない。

第6章|進学校が甲子園を揺らした日――岐阜高という存在
岐阜県の甲子園史を語るとき、
どうしても一度、立ち止まらなければならない学校がある。
岐阜高校。
県下屈指の進学校であり、
「野球エリート」とは別の道を歩んできた学校だ。
1949年夏。
戦後間もない甲子園で、岐阜高は決勝まで勝ち上がる。
左腕・花井。
派手さはない。
だが、打者の内懐を突き、外へ逃がす。
知性で投げる、そんな言葉がよく似合う投手だった。
当時のアルプス席には、
「進学校が、ここまでやるのか」
という驚きが、確かにあった。
甲子園は、強い学校が勝つ場所ではある。
だが時に、
「こういう野球もある」と示す舞台にもなる。
岐阜高の1949年は、
そのことを全国に知らしめた夏だった。

第7章|1970年夏、あのファウルボールを僕らは忘れない
1970年夏。
岐阜短大付属高校。
エースは左腕・湯口。
対戦相手は、東海大相模。
圧倒的な猛打で、優勝へ突き進んでいたチームだ。
試合は、2対2。
岐阜短大付は、真正面から殴り合ったわけではない。
だが、湯口の左腕が、試合を壊させなかった。
そして迎えた終盤。
あの場面だ。
ファウルボールが、スタンドに飛び込む。
思わず、誰かがそれを掴む。
次の瞬間、
三塁走者が、タッチアップでホームへ走る。
サヨナラ負け。
ルールは、正しい。
だが、あの一瞬の出来事は、
勝敗以上の何かを、心に残した。
「もし、あのファウルを取らなければ」
そんな言葉が、
何年経っても、語られ続ける試合になった。
それでも、拍手は敗者に送られた。
湯口は、顔を上げてマウンドを降りた。
甲子園には、
勝者より記憶に残る敗者がいる。
1970年の岐阜短大付は、まさにその一つだった。
あの頃、甲子園にはスターがいた。
北陽。
島本講平。
箕島との死闘。
延長、再試合、再び延長。
テレビの前で、誰もが息を呑んだ。
その同じ時代に、
岐阜の学校も、確かにそこにいた。
全国の記憶の片隅に、
静かに、しかし確かに――。

終章|語り継がれるということ――岐阜の白球は、今も走っている
岐阜の甲子園史を振り返ると、
勝利の数だけでは測れない何かが、確かに残っている。
岐阜商が築いた昭和初期の黄金時代。
戦火に消えた左腕・松井栄造の無念。
清沢忠彦が、審判として立ち続けた甲子園。
進学校・岐阜高が、知性で全国を驚かせた1949年。
1970年、湯口と岐阜短大付が、
たった一つのファウルボールで敗れた、忘れられない夏。
それらはすべて、
「勝ったから残った物語」ではない。
平成に入り、岐阜の高校野球は新しい顔を持つ。
2019年夏、
中京学院大中京が甲子園で見せた戦いも、その一つだ。
優勝候補と目されていた東海大相模、作新学院。
その両校を、終盤の集中力で打ち破った姿は、
岐阜が培ってきた“しぶとさ”そのものだった。
派手なスターはいなくても、
最後まで試合から消えない。
それは、岐阜商から続く県勢のDNAと言っていい。
そして令和。
鍛冶舎巧が整え、藤田監督が率いた2025年の県岐阜商。
王者・横浜を倒したあの夜は、
過去のすべてが、一本の線で結ばれた瞬間だった。
指導者が去っても、
教えは残る。
学校が変わっても、
県の野球は、続いていく。
岐阜の甲子園史は、
決して一校の物語ではない。
だが、語り始めるとき、
そして語り終えるとき、
僕たちはまた、同じ名前に戻ってくる。
岐阜商業高校。
あの夏の白球は、
もう空中にはない。
だが、人の記憶の中を、
今も確かに、走り続けている。



コメント