甲子園の入場行進で、鳥取代表の校名が呼ばれると、
どこかスタンドの空気が緩んだ――そんな時代が、確かにあった。
「また初戦だろう」「くじ運が悪いんだよ、鳥取は」。
そんな声が、半ば決まり文句のように囁かれてきたのも事実だ。
だが、ひとつだけ、忘れてはならないことがある。
鳥取は、最初から甲子園の“当事者”だった。
勝てなかった時代も、苦しい流れもあった。
それでも鳥取は、甲子園に出続けてきた。
それは偶然でも、惰性でもない。
この記事では、鳥取代表の甲子園史を
「初戦」「くじ運」「そして優勝への距離」
という視点から、
数字の裏に残された記憶とともに辿っていく。
甲子園と鳥取県|すべては第一回大会から始まった

鳥取の高校野球史は、1915年――
第1回全国中等学校優勝野球大会にまで遡る。
今でこそ「始球式の写真」は、夏の大会の風物詩だが、
この年は、すべてが初めてだった。
球場、観衆、グラウンド。
まだ「甲子園」ではなかった時代。
その記念すべき開幕試合に登場したのが、
鳥取中(現・鳥取西)だった。
相手は広島中(現・国泰寺)。
結果は14―7。
全国大会の歴史に刻まれた、
最初の勝利は、
鳥取の校名とともにあった。
当時の新聞には、派手な賛辞よりも、
こんな趣旨の言葉が残されている。
「遠来の地より来たるも、物怖じせず」
「試合運び、実に落ち着けり」
まだ“強豪”という概念すらなかった時代に、
鳥取中は、全国大会の空気そのものを受け止め、
堂々とプレーしてみせた。
その後も1916年、1920年、1924年、1929年と
4度のベスト4進出。
地方県・鳥取は、
この時代すでに、
全国の舞台で戦う感覚を知っていたのである。
昭和・平成へ|鳥取西が残した「勝ち方の記憶」

鳥取中、鳥取一中の時代から、
“文武両道の進学校”として知られてきた鳥取西。
昭和の甲子園でこの学校が時折見せる「静かな強さ」は、
派手さとは無縁でも、確実に記者席の目を引く野球だった。
1981年夏|田子投手、「準パーフェクト」という異変
1981年夏。甲子園はまだ、KKコンビが完全に“主役”になる直前の時代。
前年には荒木大輔の鮮烈デビューがあり、翌年には豪打・池田が頂点に立つ――
高校野球が一気にドラマ性を帯び始めた頃だった。
その初戦で、鳥取西のマウンドに立ったのが、エース・田子投手。
先頭打者に渋いヒットを浴びた瞬間、アルプスの鳥取応援団は一瞬だけ息を呑んだ。
だが、その後が異常だった。
二人目、三人目――打球は内野の正面、外野のグラブへ。
テンポは一定、表情は変わらない。
気づけば、先頭打者に安打を許してから27人連続アウト。
完全試合でもノーヒットノーランでもない。
それでも記者たちはこの投球を“準パーフェクト”と呼んだ。
翌日の紙面は、派手な見出しこそ控えめでも、
記事の行間にこうした空気を忍ばせていた――
「先頭打者に安打を許してから、田子は一切の無駄を削ぎ落とした」。
後年、当時を知る関係者が「“鳥取は守るだけ”という言い方はもう通用しなくなった」と振り返ったという。
「荒木大輔の時代」と重なった、静かな評価
次の試合、すでに「甲子園の顔」になっていた荒木大輔の早実と激突。
剛速球やドラマ性がもてはやされる中で、田子の投球は真逆だった。
球速を誇示せず、表情を変えず、打者の“待ち”を外す。
いわば「進学校らしい投手」だった。
7回に4点を取られて屈するも、当時の寸評には、こんなニュアンスの言葉が並んだ。
「派手さはないが、隙がない」「学習した投球」。
今思えば、昭和の甲子園で“知的な投球”が評価され始めた、小さな転換点だったのかもしれない。
1985年夏|日大三を打ち崩した「もう一つの鳥取西」
そして1985年。相手は強打で鳴らす日大三高。
この試合は、鳥取西にとって象徴的だった。
それまでの鳥取県勢は「点をやらないように耐える」戦い方が多かった。
だがこの日は違った。
追いつかれても引かない。次の回に、きちんと取り返す。
バントだけで終わらせない――打って勝つという意思が見えた。
結果は7―4。
試合後、相手ベンチ関係者が記者に漏らしたという話が残っている。
「鳥取って、こんなに振ってくるんだな」――その一言が、すべてだった。
後日談|「あの試合があったから」
田子投手は全国的なスターになったわけではない。
だが後年、鳥取西の後輩たちがインタビューで口にする言葉がある。
「1981年の田子さんの話は、何度も聞かされました」。
派手な優勝ではない。だが、県内に「勝ち方のイメージ」を残したという意味で、
あの夏は確かに鳥取西の“財産”だった。
米子東が築いた黄金期|若草色が揺れた甲子園

鳥取西と双璧をなして、県勢の歴史を形づくってきた存在――
それが、進学校としても知られる米子中、のちの米子東である。
白と若草色のユニフォームは、1950~60年代、
確かに甲子園の風景の一部だった。
1960年選抜|宮本投手と「あと一球」の記憶
1960年春。米子東はエース・宮本洋二郎を中心に、
堅実で隙のない野球を積み重ね、決勝まで駆け上がった。
鳥取県勢としては、春夏通じて唯一の決勝進出である。
決勝の相手は高松商。
全国屈指の名門を前に、米子東は一歩も引かなかった。
試合は1―1のまま9回へ。
そして迎えた終盤――
「あと一球」と表現される場面で、
放たれた打球はスタンドへ。
サヨナラ本塁打。スコアは1―2x。
勝敗は紙一重だった。
だがこの試合は、鳥取の高校野球が
「全国と互角に渡り合える」ことを、
初めて全国の視聴者に刻みつけた一戦でもあった。
翌1961年も4強|黄金期は一過性ではなかった
翌1961年の選抜。
米子東は再び甲子園に戻り、ベスト4まで進出する。
一度の快進撃ではなく、連続した結果。
これが、当時の評価を決定づけた。
新聞の扱いも変わった。
「地方の健闘」ではなく、
「戦術の完成度が高いチーム」として、
試合内容そのものが語られるようになったのである。
語り継がれる「宮本の世代」
米子東のOBや関係者の間では、
今も「宮本の世代」という言葉が使われる。
それは単なるエースの名前ではない。
自分たちの野球が、全国に通じたという実感。
その記憶の象徴が、1960~61年だった。
私学の時代に、再び|2019年の復活劇
時代は流れ、甲子園は私学全盛の時代へ。
鳥取県内でも勢力図は変わり、
米子東は長く全国の舞台から遠ざかっていた。
それでも2019年、
米子東は中国大会を勝ち抜き、
春夏連続出場という形で甲子園に帰ってくる。
久々の大舞台で見せたのは、
委縮とは無縁の、伸びやかなプレーだった。
全力疾走、積極的な打撃、
そして何より、ベンチの表情が明るかった。
「ああ、米子東が帰ってきたな」
アルプス席で、そんな声が漏れたという。
若草色が示すもの
米子東の黄金期と復活劇に共通するのは、
“進学校らしい誠実さ”と“勝負への遠慮のなさ”だ。
1960年のあと一球も、
2019年の生き生きとしたプレーも、
結果以上に「姿勢」が記憶に残っている。
若草色のユニフォームが揺れるたび、
鳥取の高校野球は、確かに前へ進んできた。
倉吉北の衝撃|「初戦敗退県」を変えた一勝

1978年夏。鳥取の高校野球史に、ひとつの異変が起きた。
初出場の倉吉北が、甲子園の初戦で古豪・早稲田実業を3―2で破ったのである。
それまで「初戦敗退」が当たり前のように語られてきた鳥取県勢にとって、
この一勝は、単なる勝利以上の意味を持っていた。
彗星のように現れた新興私学
倉吉北は、鳥取西や米子東とは毛色の違う存在だった。
伝統校でもなければ、長年の積み重ねがあるわけでもない。
新興私学。
当時の新聞には、そんな表現が使われることもあった。
県外から集まった選手も多く、
スピード、体格、試合運び――
それまでの鳥取県勢には見られなかった要素を備えていた。
記者席では、
「鳥取に、こんなチームがあったのか」
そんな声が、確かに上がっていたという。
1978年夏|早実撃破がもたらした空気の変化
早実戦は、決して一方的な試合ではなかった。
だが要所での集中力、終盤の粘りは、
“初出場校”のそれではなかった。
試合後の紙面では、
「鳥取=初戦で消える」という定型句が、
この年だけは使われなかった。
代わりに並んだのは、
「新しい風」「勢い」「台風の目」――
鳥取が、新時代に入ったかのような書かれ方だった。
1981年選抜|20年ぶりの4強、その重み
その評価が偶然でなかったことを示したのが、
1981年の選抜大会である。
倉吉北は勝ち進み、
米子東以来20年ぶりとなるベスト4へ。
鳥取県勢が、再び「全国の上位」に立った瞬間だった。
この時以降、現在まで鳥取勢は4強に届いていない。
熱狂の裏で、囁かれた違和感
一方で、当時の報道や関係者の回想を丹念に拾っていくと、
ある種の戸惑いも同時に存在していたことがわかる。
「外から集めたチームではないのか」
「これは鳥取の高校野球なのか」
そんな声が、表に出ることは少なかったが、
確かに、ささやかれていた。
のちに学校を巡る出来事もあり、
倉吉北の名前は、次第に大きな舞台から遠ざかっていく。
そのためか、この黄金期は、
あまり多く語られなくなっていった。
それでも、あの一勝が残したもの
ただ、はっきりしていることがある。
倉吉北が示したのは、
「鳥取でも、勝てるチームは作れる」
という現実的なモデルだった。
それは、後の八頭や鳥取城北へと続く、
“変化を恐れない流れ”の起点でもある。
語りにくい歴史であるからこそ、
消してはいけない。
1978年のあの夏、
倉吉北が放った一閃は、
確かに鳥取の高校野球を、
次の時代へ押し出した。
名勝負は負けても残る|境高校の10回裏

1984年夏。
あの試合を、僕ら村瀬世代は「結果」では思い出さない。
10回裏の、あの一球から、時間が止まったままなのだ。
9回まで、完全に近い静寂
境高校のマウンドに立っていたのは、エース・安部投手。
相手は東京の古豪・法政一高。
スコアボードは、0―0。
安部は、淡々とアウトを積み重ねていった。
打たせて取る。
声も、ガッツポーズもない。
ただ、ボールだけがミットに収まっていく。
気がつけば9回を終えて、被安打ゼロ。
ノーヒットノーランだった。
アルプス席の境応援団は、
歓声というより、祈りに近い静けさに包まれていた。
延長10回裏|初めて許した打球
延長10回裏。
疲労はあったはずだ。
だが、安部の表情は変わらない。
この回、法政一高の打者が振り抜いた打球は、
これまでとは違う音を立てた。
高く、深く、
そして――
スタンドへ。
初被安打が、サヨナラ本塁打。
スコアは、0x―1。
試合は、そこで終わった。
翌日の紙面にあった、ためらい
翌朝の新聞は、不思議なトーンだった。
勝者を大きく讃えながらも、
境・安部の投球に、必ず一段落を割いていた。
「敗れたが、試合を支配していた」
「勝敗が、残酷に感じられた一戦」
そんな言葉が、記事の行間に並んでいた。
完全試合でも、ノーヒットノーランでもない。
だが、記者たちは本能的に理解していたのだと思う。
これは“記録以上の試合”だと。
負けたからこそ、名勝負になった
もし、あの一球が外野フライだったら。
もし、延長11回を抑えていたら。
この試合は、
「好投で完封した一勝」として、
静かに記録の中へ消えていたかもしれない。
だが、そうならなかった。
勝利ではなく、喪失で終わった。
だからこそ、この試合は語り継がれる。
後日談|「あれ以上の投球はない」
後年、当時を知る関係者がこう語っている。
「安部は、負けたけど、
あれ以上の投球はない」
本人もまた、
「あの試合で、野球をやり切った気がした」
と、周囲に漏らしていたという。
勝てなかった悔しさと同時に、
やり切った者だけが持つ静かな納得が、
そこにはあった。
境高校が残したもの
境高校は、この試合で甲子園を去った。
だが、何も残さずに去ったわけではない。
「負けても、ここまでやれる」
「勝敗だけが、すべてではない」
そんな価値観を、
鳥取の高校野球に深く刻み込んだ。
名勝負とは、
必ずしも勝者が作るものではない。
1984年夏、境高校の10回裏。
あの一球は今も、
甲子園のどこかで、
落ちずに飛び続けている。
長いトンネルの先に|八頭、そして鳥取城北へ

1990年代後半。
鳥取県勢は、静かに、しかし確実に追い込まれていた。
1995年から――
8年連続初戦敗退。
負け方も、理由も、毎年違う。
それでも結果だけが、同じように積み重なっていった。
「またか」
その一言が、県内の高校野球関係者の間で、
半ば無意識に口をつくようになっていた。
2003年|八頭が止めた、重すぎる連鎖
2003年夏。
この流れを断ち切ったのが、八頭高校だった。
決して前評判が高かったわけではない。
相手の小山高校に、試合の主導権を握られ続ける展開。
スコアは0―2。
8回を迎えた時点で、
「また今年も…」
そんな空気が、スタンドにも漂い始めていた。
だが、その回だった。
ヒット、ヒット、またヒット。
4連打。
打球が外野に転がるたび、
何かが、ほどけていくのがわかった。
3―2。
逆転。
試合終了の瞬間、
八頭の選手たちは大きく跳ねることもなく、
ただ、呆然と立ち尽くしていたという。
それは喜びというより、
「終わった」という安堵に近かった。
勝利以上に大きかったもの
この一勝がもたらしたのは、
白星以上のものだった。
「連敗は、永遠じゃない」
「どこかで、止められる」
そんな当たり前の感覚を、
鳥取の高校野球は、久しぶりに取り戻した。
八頭の勝利は、
県勢に深呼吸の時間を与えたのだ。
再びのトンネル、そして私学の登場
だが、高校野球は甘くない。
2004年から2011年。
再び8年連続初戦敗退という現実が訪れる。
公立校中心の体制では、
全国のスピードとパワーに抗しきれない――
そんな空気も、正直あった。
その中で登場したのが、
私学・鳥取城北だった。
2012年|鳥取城北、「止める役目」を引き受ける
2012年夏。
鳥取城北は、香川西を3―1で破る。
派手なスコアではない。
だが、試合運びは落ち着いていた。
守り、走り、
勝つための野球を、最初から最後までやり切った。
この勝利は、
「私学だから」「新鋭だから」という文脈を超えて、
“役目を果たした一勝”として受け止められた。
系譜としての「連敗ストッパー」
八頭と鳥取城北。
共通点は多くない。
だが、どちらも
重たい流れを断ち切る役割を引き受けた。
誰かがやらなければ、
次の世代へ進めない。
勝つこと以上に、
「止める」ことが求められた時代が、
確かにあった。
その先へ
現在、夏の大会では再び厳しい時期が続いている。
それでも、過去が教えてくれる。
連敗は、必ず終わる。
終わらせた学校が、これまで何度もあった。
八頭がそうだったように。
鳥取城北がそうだったように。
トンネルの先に光があることを、
鳥取の高校野球は、
もう一度、知っている。
「鳥取は弱いのか?」――その問いに、今あらためて答える

「鳥取は弱い」――
この言葉は、いつから定着したのだろう。
初戦敗退が続いた時代。
強豪校との組み合わせが重なった夏。
数字だけを並べれば、そう言いたくなる年も、確かにあった。
だが、ここまで辿ってきた歴史は、
その言葉を簡単に肯定できないことを教えてくれる。
第一回大会で勝利を挙げた鳥取中。
若草色を揺らし、あと一球まで全国制覇に迫った米子東。
彗星のように現れ、時代を揺らした倉吉北。
負けてなお、名勝負として語り継がれる境。
連敗を止める役目を、黙って引き受けた八頭と鳥取城北。
そこにあったのは、
「勝てない県」ではなく、
「何度でも挑み直す県」の姿だった。
勝率や成績表では測れない価値が、
鳥取の高校野球には、確かに積み重なっている。
弱いかどうか――
その問い自体が、
この県の球史には、少しだけ似合わない。
エピローグ|それでも、鳥取は甲子園に立ち続ける
甲子園という舞台は、残酷だ。
勝てば称えられ、負ければ、すぐに次の物語へ進んでいく。
地方の一県が残せる痕跡は、
ほんのわずかかもしれない。
それでも鳥取は、
1915年から今日まで、
一度も歩みを止めなかった。
勝てなかった夏も、
くじ運を嘆いた年も、
初戦で力尽きた日も。
それらすべてを抱えたまま、
翌年にはまた、代表校が甲子園の土を踏む。
その繰り返しが、
鳥取の高校野球を、ここまで連れてきた。
僕は思う。
強さとは、
一度頂点に立つことではない。
立てなくても、挑み続けることではないかと。
だから今年も、
鳥取代表の校名が呼ばれるとき、
僕は少しだけ背筋を伸ばす。
ああ、また始まるな――と。
あの夏の白球は、
今日もきっと、
鳥取のどこかから、甲子園へ向かって投げられている。
よくある質問(FAQ)
Q. 鳥取県はなぜ甲子園で勝てないと言われるのですか?
人口や野球人口の少なさ、強豪校との初戦対戦が多かったことなど、
構造的な要因が大きいとされています。
Q. 鳥取県勢の最高成績は?
春は準優勝、夏はベスト4が最高成績で、
ベスト4も直近では1981年選抜の倉吉北が最後です。
Q. 鳥取県が甲子園で優勝する可能性はありますか?
環境整備や私学の台頭により可能性は否定できません。
「出続けている」こと自体が、将来への土台です。
本記事の執筆にあたっては、日本高等学校野球連盟公式サイトに掲載されている
歴代大会記録・出場校データを基礎資料とした。
また、朝日新聞デジタル「甲子園」特集における
各大会の試合結果・戦評、NHK甲子園アーカイブの大会史解説、
さらにNumber Webに掲載された地方校特集記事を参照し、
史実確認と時代背景の補完を行っている。
- 日本高等学校野球連盟 https://www.jhbf.or.jp/
- 朝日新聞デジタル 甲子園 https://www.asahi.com/koshien/
- NHK 甲子園アーカイブ https://www.nhk.or.jp/koshien/
- Number Web https://number.bunshun.jp/



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