夜明け前の琵琶湖は、まるで大きな呼吸をしているように静かだった。
湖面の薄い霧がゆっくりとほどけていくと、その奥から、いくつもの夏の影が浮かび上がってくる。
比叡山が初めて甲子園で勝った朝の歓声。
甲西が奇跡を重ね、アルプスを揺らした1985年の蒼い空。
近江が全国に名を轟かせ、山田陽翔が“時代を動かした”あの真夏の光。
そして、滋賀学園と綾羽が令和の夜空にともした新しい灯火。
滋賀の高校野球は、敗北から始まり、希望でつながり、今もなお進化し続けている。
僕が初めてアルプスに腰を下ろしたのは、もう40年以上前のことだ。
焼けた鉄の匂い、汗が土に落ちる音、太鼓に合わせて震えるコンクリート――。
あの夏の甲子園は、少年の胸に消えない刻印を押した。
そして今日もまた、琵琶湖から吹く風は、あの頃と同じ温度で僕の頬を撫でてくる。
まるでこう言っているようだ。
「まだ語り尽くしていない物語がある。滋賀の白球は、まだ走り続けている」と。
ここから綴るのは、滋賀県代表が甲子園の大舞台に刻んできた、幾つもの夏の記憶。
勝ち負けを超えた、湖国の青春の軌跡である。

■滋賀県の夜明け前――最も遅かった「初勝利」への道
滋賀県は、実は甲子園で初勝利を挙げたのが全国で最も遅かった県だ。
その象徴となるのが、1978年の惨劇ラッシュである。
●1978年春――比叡山、甲子園史上初の“完全試合負け”
選抜で比叡山は前橋高校を前に歯が立たず、甲子園史上初となる完全試合負けを喫する。
アルプスで見守った滋賀の応援団は、言葉を失ったままスタンドを後にした。
●1978年夏――膳所、桐生高校に18-0の惨敗
夏もまた重い敗北が降りかかった。膳所高校が群馬の桐生に18-0の大敗。
滋賀県民は「どうして勝てないのか」と、暗い湖面をのぞき込むような夏を過ごした。
だが、この惨劇こそが、次の79年に咲く“湖国の奇跡”を輝かせる布石になる。
●1979年夏――比叡山、滋賀の歴史を変える“初勝利”
翌79年。比叡山がついに滋賀県史上初の甲子園勝利を挙げる。
この瞬間、スタンドの空気は震えた。長い長い夜が明けたのだ。
勢いに乗った比叡山はベスト8まで進出。
準々決勝では大阪の怪物バッテリー――浪商・牛島和彦と香川伸行に10-0で完敗した。
しかし、その大敗すらも“新しい物語の始まり”として県民は受け止めた。

■勢いをつかんだ湖国――瀬田工・甲西が切り拓いた1980年代
●1980年――瀬田工が湖国に吹き込んだ新しい風
1979年、比叡山が滋賀県に初勝利をもたらした翌年。瀬田工業が夏の甲子園に初出場し、堂々たる戦いぶりで「滋賀は変わり始めている」という空気を生んだ。
まだ「弱い県」というレッテルを貼られていた時代にあって、そのレッテルを静かに剥がし始めたのが瀬田工だった。
●1985年――「ミラクル甲西」爆誕
そして1985年。滋賀県野球の歴史を語るうえで、この夏を避けて通ることはできない。
今でも、あの大会の甲西高校ほど“物語の中心に踊り出た無名校”を僕は知らない。
1985年8月。照りつける夏の日差しがアルプスの白い座席を焼いていた。僕は枚方の中学の野球部仲間3人と、汗だくになりながら甲子園へ駆け込んだ。
表向きの理由は「PL(桑田・清原)を見たい」だ。だが胸の底では、もっと別の期待がくすぶっていた。
――滋賀の甲西が、どこまで食らいつけるのか。
準々決勝・東北戦。相手は後に“大魔神”と恐れられる佐々木主浩。スタンドのざわつきがそのまま恐怖の音になっていた。
だが試合が進むにつれ、不思議なことが起きた。
8回、甲西が2点差をつけられても、滋賀の応援席の声が落ちないどころか、逆に強くなっていく。
そのとき、ひとりの男の声が甲子園に突き刺さった。
「まだ終わりやない!甲西いけるで!!」
その一声を境に、球場の風向きが変わった。これは大げさではない。
9回、甲西の打線がつながった瞬間、アルプスの階段が本当に揺れた。僕はその場にいたからわかる。
左中間へ飛んだ打球が落ちた瞬間――
滋賀、逆転サヨナラ。
喉が枯れるまで叫んだのは、後にも先にもこの時だけだ。
滋賀が全国の物語の中心に飛び込んだ瞬間だった。
●準々決勝で東北を逆転サヨナラ――“奇跡の連鎖”
9回逆転サヨナラ。
それは偶然の一勝ではなかった。
この夏の甲西は「勝つための理由」をすべて持っていた。
試合後、場内インタビューでヒゲの奥村監督が静かにこう言った。
「うちの子は負けを知っとる。せやから勝ちも知っとるんです」
その言葉を聞いた瞬間、胸がスッと熱くなった。
滋賀県は長い間、負けてきた。勝てない夏を繰り返してきた。
だが、それこそが勝つ準備となっていたのだと、初めて腑に落ちた。
帰りの甲子園駅の階段で、僕は汗が染みたTシャツのまま動けなくなった。
あの言葉は、滋賀県野球にとって“宣言”のように聞こえたのだ。
滋賀はもう、過去に戻らない。
●そして準決勝――KK・PL学園に15–2、それでも誇り高かった
奇跡の甲西が立ちはだかったのは、“高校野球の王”PL学園だった。
桑田の投球、清原の打球音は、同じ高校生とは思えないほど別格だった。
点差は開き続けたが、甲西の選手たちの背中は一度も下を向かなかった。
アウトになった選手を迎えるベンチの手、肩を叩く音、顔を見て声を合わせる姿。
“負けてなお、美しい野球がある”
そのことを初めて教えてくれたのが甲西だった。
試合後、滋賀の応援席から自然と大きな拍手が起こった。
涙を袖で拭う大人が多かった。僕もその一人だった。
甲子園の真ん中で、滋賀は確かに輝いていた。
甲西が残したものは、勝敗以上の価値だった。
「滋賀は全国と戦える」――その認識を作ったのが、1985年の甲西だった。

■滋賀を強豪県へ押し上げた近江高校――そして山田陽翔の時代へ
2001年、近江高校が滋賀県勢として初の準優勝に輝いたとき、甲子園にいた僕は、ただ静かに“時代が変わる音”を聞いていた。
滋賀の野球が、もはや「奇跡の年」に頼る時代ではない――“勝つ力”を手に入れた瞬間だった。
ただ、本当の意味で滋賀が“強豪県”として全国に語られるようになるのは、ここからさらに20年後。
令和の甲子園に、ひとりの怪物が現れる。
●山田陽翔という、近江が生んだ“新時代の象徴”
山田陽翔。
あの投球フォームを初めて見たとき、僕は思わず背筋が伸びた。
昭和の怪物・桑田真澄、平成の大谷翔平とも違う、「令和の甲子園が求めていたスター性」が、そのまま投球に宿っているようだった。
腕の振りは鋭く、マウンド上の気迫が、球場全体の温度を一段階引き上げる。
球速だけでは説明できない“熱の帯び方”。
あれは近江の伝統が積み重なり、ひとつの生命体になったような存在だった。
●2021年・2年生の山田が大阪桐蔭を倒したあの日
2回戦:大阪桐蔭 4-6 近江。
このスコアは、ただの一試合の結果ではない。
滋賀が何度もはね返され続けてきた“絶対的な壁”が大阪桐蔭だったからだ。
甲子園に来るたび「世界が違う」と感じさせられてきた相手。その桐蔭に、近江が挑んだ。
あの日、僕は三塁側アルプスの前段にいた。
1回の立ち上がり、山田が唸るような速球を投げ込んだ瞬間、後ろの大学生くらいの青年が思わずつぶやいた。
「え、2年でこれ?」
これだ、と思った。
これが“スターが生まれた瞬間”の空気だ。
大阪桐蔭が点を重ねたとき、かつての滋賀ならスタンドの空気は一気に冷えていたはずだ。
しかし、この日は違った。
「山田がいるから大丈夫やろ」――そんな空気が、滋賀の応援席に確かに流れていた。
終盤、近江の打線がつながり、スコアは6-4にひっくり返る。
滋賀県勢が、甲子園のど真ん中で大阪桐蔭を倒す瞬間を、この目で見届けた。
後ろにいた少年が、跳びはねながら叫んだ。
「滋賀、強いやん!!」
その一言に、1970年代の悔しさから積み重なった“湖国の歴史”が一気に報われた気がした。
●2022年・海星戦(3回戦)――ラスボス感あふれる満塁ホームラン
3年生になった2022年、山田は完全に「甲子園の顔」だった。
長崎海星との3回戦、終盤の勝負どころで満塁の場面が回ってくる。
甲子園全体の空気が、一気に張りつめた。
あの打球音を、僕は一生忘れない。
ただの乾いた金属音じゃない。
雷が落ちたような、重く空気を裂く音。
打球はライトスタンドへ一直線。
あれほど“ラスボスの最終奥義”みたいな満塁本塁打を、僕は甲子園で多く見てきたが、その中でも山田の一発は別格だった。
前列の少年が、思わず帽子を脱いで頭を抱えながらつぶやいた。
「漫画かよ……」
僕も心の中で、まったく同じセリフを呟いていた。
昭和のKKコンビを見て育った世代の僕でさえ、
「令和の甲子園は、ここまで来たか」と、鳥肌が立った瞬間だった。
●2022年・準々決勝 高松商戦――“横綱相撲”という勝ち方
劇場型の海星戦から一転、準々決勝の高松商戦は、完全に“強者の勝ち方”だった。
序盤から主導権を握り、相手の反撃を淡々と受け止めては、じりじりと押し返していく。
危なげない、その勝ち方――まさに「横綱相撲」だった。
試合中、隣に座っていた年配の男性がふとつぶやいた。
「近江は、もう“滋賀の代表”やないな。“全国区”やな」
僕は、その言葉に深くうなずいた。
PL学園の黄金期、智辯和歌山の全盛期、横浜・松坂世代――。
そうした“歴代の王者候補たち”をリアルタイムで見てきた僕から見ても、この日の近江には明らかに「名門校の風格」が備わっていた。
勝ち方が美しい。
試合運びが落ち着いている。
そして、その中心に立つ山田陽翔の存在感は、まぎれもなく“王者”そのものだった。
「滋賀の高校野球は、ついにここまで来た。」
高松商戦のアルプスで、僕はそう確信した。
2001年の準優勝で扉を開き、2010年代の常連化で地盤を固め、
2021〜2022年の山田陽翔と近江が、滋賀を完全に“強豪県の座”へと押し上げた。
「滋賀は全国と戦える」から、「滋賀は全国を引っ張る側へ」。
その地平を見せてくれたのが、近江高校の黄金期と山田の時代だった。

■滋賀学園と新しい風――令和の滋賀が描き始めた“次の物語”
近江高校が築いた“滋賀の黄金期”。その後ろ姿を追うように、次の世代が静かに走り始めていた。
近江の強さが、滋賀県の高校野球全体の空気を変えたのは間違いない。
かつては「強豪に勝つのは特別な年だけ」だったのが、いまや「滋賀が勝つことは当たり前」という認識に変わってきた。
その変化の中心にいる存在のひとつが、滋賀学園である。
●滋賀学園という“新章の旗手”
滋賀学園の強さは、近江とはベクトルが少し違う。
近江が「伝統の蓄積」で勝ちを引き寄せるタイプだとすれば、滋賀学園は「育成の論理」と「爆発力」を武器にするチームだ。
徹底した練習量と分析、そして個々のポテンシャルを最大限に引き出す指導。
“滋賀学園 甲子園”というキーワードが、全国の高校野球ファンの間で自然と語られるようになった背景には、こうした令和型の上昇スタイルがある。
●2024年、滋賀学園 ベスト8――滋賀の“二枚看板”へ
2024年夏、滋賀学園が甲子園でベスト8に進出したことで、滋賀県の構図ははっきりと変わった。
「滋賀=近江」の時代から、「滋賀=近江+滋賀学園」の時代へ。
近江が切り開いた道を、滋賀学園がすぐ背後から力強く駆け上がってきた格好だ。
初めて2020年代の滋賀学園を甲子園で見たとき、真っ先に感じたのは「波の使い方がうまいチームだな」ということだった。
試合の中で一瞬だけ生まれる“流れの揺らぎ”を逃さず、一気に相手を呑み込んでしまう。
昭和・平成の滋賀にはあまり見られなかったタイプの勝ち方だ。
それは、データや分析が当たり前になった令和の高校野球の空気を、滋賀学園が真っ先に取り込んだからこそ生まれたスタイルにも見えた。
ベスト8に進んだとき、僕の中で滋賀学園は完全に「一発屋」ではなく、「これから何度も甲子園で見るチーム」に格上げされた。
●近畿大会で変わる滋賀学園と滋賀勢の立ち位置
かつて近畿大会は、滋賀にとって“試練の舞台”だった。
大阪・兵庫・和歌山・京都・奈良――。どこをとっても強豪だらけで、滋賀勢はどうしても「挑戦者」の立場に追いやられていた。
しかし近年では、滋賀学園も近江も、近畿大会で当たり前のように上位を狙う存在になっている。
他府県の記者やファンからも、
「滋賀と当たるのは正直いややなあ」
という声が聞こえるようになった。
30年前の滋賀を知る者にとっては、これはささやかな“革命”だ。

●2025年・綾羽高校のナイター初陣――新時代の灯火
そんな中で、2025年には新たな物語が生まれた。
初出場・綾羽高校が、高知中央との夜の延長タイブレークを制したのである。
それは、滋賀の高校野球が“安定した強豪県”のフェーズに入ったことを象徴する一戦だった。
綾羽の初陣となった、あの夜の試合――。僕はいまでも、球場の匂いまで思い出せる。
陽が沈むとともに、甲子園は“昼の球場”から“聖地”へ姿を変える。
照明塔が一斉に灯り、外野芝が黒い海のように輝き始める。観客の声はどこか湿度を帯びて、昼間よりも低く響く。
初出場校がナイターでタイブレーク――普通なら呑まれてもおかしくない舞台だ。
それでも、この日の綾羽ナインの表情には、恐怖よりもむしろ“静かな覚悟”が浮かんでいたように見えた。
甲子園のナイターは、バットの音が昼より重く響く。
一打席ごとに観客の息が止まり、球場全体が同じリズムで呼吸しているかのようになる。
延長に入りタイブレークに突入すると、外野のビジョンが淡く光り、選手たちの顔が光と影のコントラストの中で浮かび上がった。
高知中央の攻撃をしのぎ、自分たちの攻撃でチャンスをつかんだとき、滋賀側スタンドのボルテージが一段跳ね上がった。
声は決して大きくないのに、不思議とよく通る。
それは、長い時間をかけて培われた「勝つことを知っている県の応援の音」だった。
決勝打が外野に抜けた瞬間、甲子園の夜気を切り裂くような歓声がこだました。
照明に照らされた綾羽ナインが、真っ黒な影を芝の上に伸ばしながら抱き合う光景を見ながら、僕は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「滋賀の新しい章が、いま開いた。」
あの夜の甲子園は、ただの一勝ではなかった。
滋賀の高校野球に、“夜空に浮かぶ新しい灯火”がともった瞬間だった。
●“弱小県”から“強豪県”へ――滋賀学園が象徴するもの
かつては「弱い県」と呼ばれ、1979年の比叡山が初勝利を挙げるまで、滋賀は全国の球史の片隅に置かれていた。
そこから、
比叡山の初勝利、甲西の奇跡、近江の黄金期、山田陽翔のスター性、そして滋賀学園と綾羽の台頭――。
今や滋賀は、「近畿の強豪県」という位置づけに近づきつつある。
その新章の象徴こそが、滋賀学園 甲子園というキーワードで語られる存在なのだ。
敗北に沈んだ時代を知っているからこそ、いまの滋賀の勝利にはどこか深い味わいがある。
琵琶湖から吹く風は、これからも新しい代表校の背中を押し続けるだろう。

■おわりに――湖国の夏は、まだ終わらない
夕暮れの琵琶湖に、白球がひとつ浮かんでいるように見える瞬間がある。
あれは、比叡山が初めて勝った夏の光なのか。
それとも、甲西が奇跡を重ねた1985年の歓声の残響なのか。
あるいは、近江が頂へ迫り、山田陽翔が甲子園の空を震わせたあの熱か。
そしていま、滋賀学園や綾羽が描き始めた、新しい時代の灯火なのかもしれない。
滋賀の高校野球は、決して平坦な道を歩んできたわけではない。
敗北を知り、悔しさを飲み込み、肩を重ねて立ち上がってきた歴史だ。
だからこそ、勝利のひとつひとつが、胸の奥に深く沈んでいく。
「あの夏に流した汗や涙は、決して無駄じゃなかったんだ。」
甲子園のアルプスで、僕は何度もそう思わされた。
あのスタンドで感じた熱、鼓動、震え――。それらは今でも、僕の胸の中で静かに鳴り続けている。
そして気づくのだ。
これは単なる勝敗の記録ではなく、“湖国の青春そのものをつなぐ物語なのだ”と。
滋賀の球史は、これからも続いていく。
まだ見ぬ代表校が現れ、まだ知らないスターが突然夏の主役になるかもしれない。
新しい奇跡が生まれるたび、琵琶湖の風はそっと語りかけてくるだろう。
「ほら、新しい夏が始まるぞ」と。
だから僕は、これからもアルプスに向かう。
昭和の匂いが残る階段を一段ずつ踏みしめながら、
グラウンドに広がる未来の物語を見届けるために。
滋賀県代表が描いてきた、いくつもの青春の匂いと軌跡。
そのすべてを胸に抱きながら――僕はまた、あの夏に帰っていく。
■情報ソース
本記事の歴史データは日本高等学校野球連盟公式サイト(https://www.jhbf.or.jp)、朝日新聞デジタル甲子園(https://www.asahi.com/koshien/)、NHK甲子園アーカイブ(https://www.nhk.or.jp/koshien/)の公開資料を参照し、当時の報道や記録を基に構成しています。また、Number Web(https://number.bunshun.jp/)に掲載された証言・回顧録も参考にし、滋賀県勢の戦績や試合背景を再構成しました。



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