あの夏、山形はなぜ甲子園で変わったのか――白球が語る県勢87年の挑戦史

学校別ストーリー

灼熱の甲子園。アルプス席の端で、紫紺とも臙脂ともつかない応援団旗が、静かに揺れていた。
「山形代表――」そのアナウンスが流れるたび、勝敗とは別の拍手が起きる。
勝てない。そう言われ続けてきた県だった。
それでも――山形は甲子園で何を残してきたのか。白球の記憶を辿ってみたい。


甲子園と山形県|すべては1936年、山形中(現・山形東)から始まった

山形県勢の夏の甲子園初出場は1936年。出場校は山形中(現・山形東)だった。
だが、この一歩はあまりに険しかった。以降、県勢は13回連続初戦敗退。勝利の匂いすら、遠かった。

県勢初勝利|1973年、日大山形がついに扉を開けた

山形県勢が、夏の甲子園で初めて白星を挙げた日――。
それは1973年、日大山形が鹿児島実業を2―1で下した一戦だった。

1936年の初出場から、実に37年
新聞はこぞって「悲願」「ついに」「長い道のり」という言葉を見出しに躍らせた。

当時の報道を読み返すと、勝敗以上に強調されているのは、
“山形が、ようやく甲子園に受け入れられた”という感覚だった。

試合内容は、決して派手ではない。
むしろ、緊張で体がこわばったような、重たい展開だったという。

それでも、最後のアウトが取られた瞬間――
ベンチから飛び出した選手たちは、勝った実感よりも、終わった安堵に近い表情を浮かべていたと伝えられている。

スタンドでは、派手な歓声よりも、
じわじわと広がる拍手が印象的だったという記録が残る。

「やっと、ここまで来たな」
そんな言葉が、誰からともなく漏れた――
当時の山形にとって、この一勝は喝采よりも、深い吐息に近い喜びだった。

勝った、というより。
ようやく“負けなくていい夏”が来た。

この一勝が、すぐに連勝や快進撃を生んだわけではない。
だが確実に、県勢の意識を変えた。

「勝ってもいい」
「ここで終わらなくてもいい」

日大山形が開いたこの扉は、
後に続く世代――東海大山形、山形中央、鶴岡東へと、
確かに受け渡されていくことになる。

勝利は記録に残る。
だが、勝利までに費やした時間は、県の記憶に残る。

1980年代の苦闘|7連敗、そして1985年“毎回得点”という屈辱

1973年の初勝利からなお、山形の夏は険しかった。
1980年代、県勢は再び7大会連続初戦敗退
「やっと勝てた県」から、「やはり勝てない県」へ――
そんな評価が、静かに定着しかけていた。

その象徴として、今も語られるのが1985年の一戦だ。
山形代表は東海大山形
対戦相手は、あまりにも大きな存在――PL学園だった。

桑田真澄、清原和博。
“KKコンビ”の名は、すでに伝説だった。
僕はあの年、アルプス席で彼らを見ていたが、
同じ高校生とは思えない威圧感が、球場全体を包んでいたのをはっきり覚えている。

試合は、開始直後から現実を突きつけてくる。
打っても、打っても、PLの攻撃は終わらない。
気がつけば、毎回得点

結果は29―7
甲子園史上、唯一の「毎回得点試合」という、あまりにも残酷な記録が刻まれた。

だが、あの試合で本当に折れたのは、スコアボードではない。
「努力してきたつもりだった」という自負だった。

後年、当時の関係者はこう振り返っている。
「技術じゃなかった。準備の量も、覚悟の深さも、まるで違った」と。

ベンチに戻った東海大山形の選手たちは、泣かなかったという。
泣けなかった、が正しいかもしれない。
あまりに差が大きく、感情が追いつかなかったからだ。

悔しい、の前に。
「これが本物の強さか」と、思い知らされた。

だが――
この屈辱は、確実に県全体を変える引き金になった。

以降、山形では静かな改革が始まる。

  • 県外強豪校との練習試合の積極化
  • 冬場の基礎体力・走り込みの徹底
  • 「勝てる野球」を前提とした指導意識の転換

それまでの山形は、
「出場できれば成功」という空気が、どこかにあった。

1985年以降、その前提が壊れる。

「甲子園は、挑戦の場ではない」
「勝負の場だ」

あの日、PL学園に叩きのめされた経験は、
次の世代に言葉ではなく、感覚として受け継がれていった。

後年、甲子園で粘り強く戦う山形勢を見て、
僕は何度も思った。

あの29―7がなければ、
今の「しぶとい山形」はなかった。

屈辱は、時に最大の教材になる。
1985年の夏は、負け方を通じて、勝ち方を学んだ夏だった。

地力の芽生え|勝利が「偶然」ではなくなった

それでも、時間は嘘をつかない。以降、山形勢は少しずつ“地力”を見せ始める。
東海大山形、日大山形に加え、山形中央酒田南も甲子園で2勝を挙げるなど、勝利が「偶然」ではなくなっていった。

  • 東海大山形:苦闘の先に掴んだ勝利
  • 日大山形:県勢の扉を何度もこじ開けた存在
  • 山形中央・酒田南:県内勢力図を押し広げた挑戦者

2006年|13回裏、白球は山形の夏を越えていった

2006年8月。
その年の山形代表、日大山形は、すでに2勝を挙げていた。
それだけで、県内は少し騒がしくなっていた。

「もう十分だろう」
どこかで、そんな声もあったと思う。

だが、選手たちの顔は違った。
“ここで終わる顔”を、誰ひとりしていなかった。

3回戦の相手は今治西
四国の雄。甲子園慣れした、老獪な強豪だった。

試合は、序盤から打撃戦となる。
スコアボードに次々と数字が入る。
8―8。
気づけば、いつの間にか終盤を越え、延長戦に入っていた。

アルプス席の空気が、重くなる。
「さすがに、ここまでか」
山形のファンは、何度もこの感覚を味わってきた。

そして――
13回表。

今治西が2点を奪う。
スタンドに、ため息が落ちる。
8―10。

「よくやった」
その言葉が、頭をよぎった人も多かったはずだ。

だが、その裏。
日大山形のベンチは、静かだった。

慌てない。下を向かない。
誰も、“終わり”の準備をしていなかった。

先頭打者が出る。
次も、つなぐ。
スタンドが、ざわめき始める。

一打、一球ごとに、
「もしかして」が「本当に」に変わっていく。

そして――
打球が外野に上がった瞬間。

三塁ランナーが、ホームへ。
送球がそれる。
同点。

甲子園が、どよめいた。

さらに、次の打者。
食らいつくようなスイング。
打球は、前へ、前へ。

三塁ランナーが、ホームを踏む。
逆転サヨナラ。

その瞬間――
日大山形の選手たちは、堰を切ったようにグラウンドへ飛び出した。

抱き合う。転ぶ。叫ぶ。
勝った、というより。
「超えた」という表情だった。

13回裏。
山形の高校野球が、自分自身を追い越した瞬間だった。

この勝利で、日大山形は県勢初の夏3勝
そして、ベスト8へ。

スコア以上に意味があったのは、
「劣勢でも、慌てず、折れず、ひっくり返せた」という事実だ。

1985年、29―7で叩きのめされた県が、
2006年、13回の裏まで戦い抜いた。

この試合を境に、山形は変わる。

  • 終盤で粘れる
  • 劣勢でも顔色が変わらない
  • 一球を信じてつなぐ

それらはすべて、
この一試合が教えてくれた“勝ち方”だった。

勝利は、偶然じゃない。
積み重ねた時間が、13回裏に姿を現しただけだ。

あの夏以降、
山形は「最後まで嫌な相手」になった。

そして僕は今でも思う。
2013年の4強も、2019年の猛打も、
すべては、この13回裏につながっている。

2013年|ついに4強へ。「真っ向勝負」が完成した夏

2013年夏。
その年の日大山形には、不思議な落ち着きがあった。

大声で気合を入れるでもない。
かといって、硬くもない。
「自分たちが、何者かを知っている」――そんな空気が、最初から漂っていた。

中心にいたのが、エース庄司だった。
剛速球でねじ伏せるタイプではない。
だが、一球一球に迷いがなかった

それは、2006年を知る世代が積み重ねてきたもの。
終盤で慌てないこと。
相手の名前に飲まれないこと。
「全国」と同じ土俵で、同じ顔をして戦うこと。

初戦から、相手は簡単ではなかった。
日大三高
言わずと知れた、西東京の王者。

だが、日大山形は引かなかった。
小さくまとまらない。
逃げず、かわさず、正面からぶつかった。

打たれたら、打ち返す。
点を取られたら、取り返す。
「強い相手だから守る」ではなく、「強い相手だから攻める」。

その姿勢は、次の試合でも変わらない。
相手は明徳義塾
甲子園での勝ち方を、最も知る学校の一つだった。

間を使い、流れを奪い、焦らせる。
だが、そのすべてに対し、日大山形は顔色一つ変えなかった

ここで思い出した人も多かったはずだ。
1985年。
同じ甲子園で、ただ飲み込まれたあの夏を。

だが2013年の彼らは、違った。

恐れていなかった。
比べてもいなかった。
ただ、自分たちの野球を続けていただけだった。

勝った理由は、戦術でも偶然でもない。
「真っ向勝負を、最後までやり切った」――それだけだ。

そして、ついに辿り着く。
県勢初のベスト4。

スコアボードを見上げる選手たちの表情は、
驚きでも、興奮でもなかった。

「ここまで来たな」
そんな、静かな納得に近かった。

思えば――
1936年の初出場。
1973年の初勝利。
1985年の屈辱。
2006年の13回裏。

すべてが、この夏につながっていた。

山形は、勝てない県ではなかった。
勝つまでに、時間が必要な県だった。

2013年の日大山形は、その答えを、
全国のど真ん中で、真正面から示してみせた。

現代の山形|鶴岡東が示した「力の山形」という現在地

そして、物語は現在形へと続いていく。

2010年代後半。
甲子園で山形と当たることを、
相手校が少しだけ嫌がるようになった。

理由は、はっきりしている。
鶴岡東の存在だ。

かつての山形は、
「守って、粘って、どこまで食らいつけるか」だった。

だが鶴岡東は違った。
最初から、奪いに来る。
最初から、殴り合う覚悟で入ってくる。

2019年夏。
2回戦の相手は、センバツ準優勝の習志野
全国屈指の応援と一体になった、完成度の高いチームだった。

だが、鶴岡東は一歩も引かない。
振る。走る。畳みかける。
結果は9―5。

勝ち方が、象徴的だった。
守り切ったのではない。
打ち勝った。

甲子園の評価が、そこで変わった。

「山形、振れるな」
「山形、強いぞ」

その印象を、決定的にしたのが2022年だ。

2回戦の相手は、エース山田を擁する近江
全国屈指の投手力を誇る優勝候補だった。

結果は3―8。敗れはした。
だが、その内容が、異様だった。

1大会5本塁打。
山形勢が、甲子園でこれほど長打を量産した例はない

力負けではなかった。
力で、ぶつかりに行った結果だった。

ここに至って、ようやく言える。

山形はもう、
「粘って勝てたら奇跡の県」ではない。

打てる。
走れる。
最後まで、顔色が変わらない。

1985年の29―7。
2006年の13回裏。
2013年の真っ向勝負。

それらすべてが積み重なって、
2019年と2022年の“力”になった。

耐えてきた時間が、
ようやく「力」として表に出ただけだ。

今の山形は、しぶとい。
そして、強い。

もう誰も、
「どうせ山形だから」とは言わない。

あの夏の白球は、
過去を背負い、今を生き、
次の世代へ、確かに走っている。

補章|センバツが映した、もう一つの山形

夏の甲子園ばかりが語られるが、
山形には、もう一つの顔がある。

春――センバツだ。

出場回数こそ多くはない。
だが、いざ立てば、初戦を突破する確率は決して低くない

日大山形、鶴商学園(現・鶴岡東)、東海大山形、山形中央。
いずれも、春の甲子園で「山形は簡単じゃない」という印象を残している。

象徴的なのが2005年
羽黒がエース片山を中心に堂々と勝ち進み、県勢初のセンバツ・ベスト4へ。

あの春は、こう告げていたのかもしれない。
「山形は、準備が整えば勝てる」と。

エンディング|あの夏の白球は、今も走り続けている

振り返れば、山形の甲子園は、
一直線ではなかった。

勝てなかった時代があり、
屈辱に打ちのめされた夏があり、
それでも諦めず、同じ場所に立ち続けた時間があった。

1936年の初出場。
1973年の初勝利。
1985年の29―7。
2006年の13回裏。
2013年の4強。
そして、鶴岡東が示した現在地。

それぞれは、ただの「結果」かもしれない。
だが、一本の線で結ぶと、はっきりと見えてくる。

山形は、負けながら学んできた県だった。

負け方を知り、
耐え方を覚え、
最後に、勝ち方を自分のものにした。

今、甲子園で山形代表の名前が呼ばれるとき、
そこにあるのは、もはや同情ではない。

「簡単じゃない相手だ」
そんな、確かな警戒だ。

白球は、一度も立ち止まっていない。
負けた夏から、勝った夏へ。
先輩から、後輩へ。

あの夏の白球は、
過去を背負い、現在を生き、
そして――
まだ見ぬ次の夏へ向かって、今も走り続けている。

だから僕は、こう思う。

山形の甲子園は、
まだ「途中」なのだ。

次に歴史を塗り替えるのは、
まだ名前も知られていない、
どこかのグラウンドで汗を流す球児かもしれない。

その時、またこの物語に、
新しい一行が書き加えられる。

――それこそが、
高校野球という物語の、いちばん美しい終わり方なのだと思う。

情報ソース(公式・報道)

※本記事は公開情報(公式記録・報道アーカイブ)を参照し、山形県勢の歩みを物語として再構成したものです。試合結果・出場記録の最終確認は、上記公式・アーカイブをご参照ください。

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よくある質問(FAQ)|山形県と甲子園の歴史

Q1. 山形県代表が夏の甲子園で初めて勝ったのはいつですか?

山形県勢が夏の甲子園で初勝利を挙げたのは1973年です。
日大山形が鹿児島実業を2―1で下し、これが県勢初の夏勝利となりました。

Q2. 山形県代表は長い間、甲子園で勝てなかったのですか?

はい。1936年の初出場(山形中)以降、13回連続初戦敗退を喫し、
1980年代にも7大会連続初戦敗退がありました。
ただしその苦闘が、後の躍進の土台となりました。

Q3. 山形県勢の夏の甲子園での最高成績は何ですか?

夏の甲子園における山形県勢の最高成績は、
2013年・日大山形のベスト4(4強)です。
強豪校を次々と破り、県勢初の快挙となりました。

Q4. 山形県は近年、甲子園で強くなっているのですか?

近年は日大山形鶴岡東を中心に、
甲子園で複数勝利を挙げる大会が増えています。
「簡単には崩れない」「しぶとく勝つ県」という評価が定着しつつあります。

Q5. 山形県代表はセンバツ(春の甲子園)ではどうですか?

センバツ出場回数は多くありませんが、初戦突破率は高いのが特徴です。
特に2005年の羽黒高校は、県勢初となる
センバツ・ベスト4に進出し、大きな話題を集めました。



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