雪が降りしきるグラウンド。
白い息を吐きながら、少年たちは黙々とボールを投げ合っていた。
バットの音も、声援もない。
ただ、風と雪の音だけが響く――。
日本海の風を受ける新潟県。
冬の間、グラウンドは凍りつき、打撃練習は体育館の中。
春を待つその時間を、球児たちは“鍛錬”と呼んだ。
雪が降るほどに、心を強くする。
それが、越後の野球の始まりだった。
1920年・長岡中の初勝利、
1981年・新発田農業の二勝、
1984年・新潟南の躍進、
1990年代・中越と明訓の挑戦、
2009年・日本文理の奇跡の夏――。
そして、2025年秋。帝京長岡と文理が北信越を制し、
新潟は再び“春”を掴もうとしている。
雪に閉ざされた冬の下で、
少年たちはずっと信じていた。
「この雪の下にも、夏がある」――と。
そしていま、その夏は確かに咲こうとしている。
――これは、“勝てない県”と呼ばれた雪国が、
“勝つ県”へと歩み出すまでの70年の物語。
その白球の軌跡を、静かに、そして熱く、辿ってみよう。
文・村瀬 剛志(高校野球クロニクルライター)
第1章:「勝てない県」と呼ばれた時代――雪国・新潟の苦闘と息吹
灼けるような甲子園の砂に、まだ新潟の足跡は浅かった。
昭和の越後。白い雪と長い冬に閉ざされた土地で、球児たちは「勝てない県」と呼ばれながらも、
いつかその名を刻もうと、黙々と白球を追い続けた。
雪解けを待つ時間が、彼らにとっての「春練」だった。
冬の間、グラウンドは真っ白に閉ざされる。
打撃練習は体育館でのゴムボール。木の床に響く音、吐く息の白さ。
春風が吹いても、芝はまだ湿り、ボールは重い。
それでも球児たちは信じていた。
「雪の下にも、夏は来る」と。
▶県勢初勝利――長岡中、そして新潟商がつないだ火
遡ること大正9年(1920年)。
当時の長岡中学校(現・長岡高校)が、北海中を7対4で破り、
これが新潟県勢としての全国大会(鳴尾球場)初勝利となった。
まだ球場が土の香りに包まれていた時代、
雪国の高校が全国で初めて掲げた勝利の白旗だった。
そして戦前・戦後を通じて県内の野球文化を牽引したのが新潟商業高校。
大正15年(1926年)、 甲子園球場での県勢初勝利を上げ、ベスト8に進出。
高松中学に甲子園の歴史で唯一となった日没コールドで惜敗するも、
「雪国でも組織的な野球ができる」と証明した存在だった。
厳格な監督の指導は徹底しており、
その信念は「雪国の分だけ、心を鍛えろ」。
この精神が、のちに県内の野球指導者たちへと受け継がれていく。
やがてその火は、農業の町・新発田で再び燃え上がることになる。
▶伏線となった前夏――1980年、新発田農業が見せた雪国の牙
1980年(第62回大会)、新発田農業高校が初の甲子園出場を果たした。
対戦相手は名門・天理高校。本大会でも準決勝で愛甲投手を擁する横浜高校に惜敗した強豪である。
その天理を相手に、新発田農は互角の戦いを演じた。
一時は逆転し終盤までリードを奪いながらも惜しくも延長線で負け。
だが、あの試合が「雪国の野球も通用する」と全国に知らしめたのだった。
試合後、安田監督は選手を前に言った。
「ただでは新潟に帰らない。次は勝って、この土を踏む」。
その言葉は、翌年の奇跡の夏への伏線となった。
▶第63回大会・1981年――新発田農業、越後の泥が花咲かせた
1981年(第63回大会)、安田監督率いる新発田農業は2年連続の聖地・甲子園。
初戦の相手は全国制覇6度を誇る超名門広島商業高校。
誰もが“分が悪い”と思った試合だった。
エース須藤投手が渾身のストレートで挑み、守備陣が雪国仕込みの堅守を見せた。
試合は息詰まる投手戦。終盤に追いつき、延長十一回――
新発田農は一気に勝ち越し、守りきった。
3対1、新発田農業の勝利。
甲子園の空に、越後の風が吹いた瞬間だった。
続く2回戦、山梨の東海大甲府高校を4対3で破り、
ついに新潟県勢として初の2勝を記録。
雪国の野球が全国の檜舞台で咲いたその夏、
新潟日報の一面にはこう踊った。
「越後の農、甲子園に春を呼ぶ」。
安田監督は試合後、静かに言った。
「雪の下にも根があるんです。ようやく芽が出ました」。
泥だらけの白いユニフォームを見つめながら、
県民の誰もがその言葉を胸に刻んだ。
▶雪国の系譜――“勝てない県”が“勝ちに行く県”へ
1980、81年の新発田農業は、新潟野球の流れを変えた。
「雪で練習できない」はもう言い訳ではなくなった。
むしろ「雪があるから、心が鍛えられる」と胸を張る球児が増えていった。
それは、長岡中・新潟商が灯した火が、新発田農で燃え上がり、
のちに新潟南、そして日本文理へと受け継がれていく“魂の継承”だった。
新潟野球の歴史は、敗北の連続ではない。
それは、「雪の下で根を張る」長い時間の物語だ。
1980、81年の新発田農業こそ、その根が初めて芽吹いた瞬間だった。
越後の白球は、その夏、確かに全国を照らした。

第2章:明訓と中越――雪のトンネルを抜けて
1960年代から80年代、越後の野球は「出ても勝てない」と嘆かれてきた。
雪は敵、環境は不利。そんな言葉が常識だった。
だが、その常識を少しずつ溶かしていったのが、二つの高校だった。
中越高校と新潟明訓高校――。
彼らの敗北と小さな勝利の積み重ねが、やがて新潟野球を全国区へと押し上げていく。
▶中越高校――30年のトンネルと、一勝の涙
長岡市にある中越高校。
雪深い土地に建つそのグラウンドは、春まで白い世界の中に沈んでいた。
チームを率いたのは、温厚だが妥協を許さない指導者、鈴木春祥監督。
「勝つまで帰るな」が口癖だった。
中越は1978年の初出場以来、何度も甲子園の土を踏みながら、勝利には届かなかった。
敗戦のたび、選手たちは新潟駅で迎える家族に「ごめん」と頭を下げたという。
それでも鈴木監督はブレなかった。
「雪国は、負けても続ける力を持っている」。
それが鈴木野球の信条だった。
そして1994年夏、第76回大会。
中越は7度目の挑戦でようやく甲子園初勝利を挙げる。
30年、実に30年のトンネルを抜けての勝利だった。
この一勝に、新潟県民は涙した。
だがその後も「出ると負ける」悔しさが続く。
“強豪”ではなく“挑戦者”のまま――それが中越の宿命だった。
▶新潟明訓――“ドカベン”が見た夢
一方、新潟市の中心にある新潟明訓高校が、
静かに雪国野球の「次の扉」を開いていた。
指揮を執ったのは佐藤和也監督。
徹底した守備練習と、走塁・小技を軸にした堅実なチーム作り。
1980年代後半から、明訓は新潟県大会で頭角を現し始めた。
そして1993年、第75回大会。
ついに明訓が甲子園初勝利を掴む。
それは中越の長い敗北の時代を知る県民にとって、
“新しい風”の到来を告げるものだった。
この勝利を機に、明訓は春夏の常連校へと成長していく。
やがて、漫画『ドカベン』の作者・水島新司さんが
「明訓は私のモデル」と公言し、甲子園まで応援に駆けつけた。
ライトブルーのユニフォームの胸に「明訓」の文字。
全国の野球ファンに“雪国にもこんなチームがあるのか”と知らしめた瞬間だった。
そして2007年夏、明訓は悲願の2勝を挙げる。
佐藤監督が積み上げてきた堅実な野球が、ついに全国の舞台で開花したのだ。
県民がテレビの前で泣いた年。
それは“敗北の美学”から、“勝利の実感”へと変わった夏でもあった。
▶雪国の風、再び――文理爆発前夜
1980年代後半。
新潟市の西側で、ひとつの新しい力が育ち始めていた。
日本文理高校。
1997年、初の甲子園出場。
グラウンドには、明訓や中越の戦いを見て育った少年たちが立っていた。
「雪でも勝てる」ことを、すでに信じていた世代だった。
中越が刻んだ“30年のトンネル”。
明訓が照らした“光の道”。
その二つの軌跡が交差したところに、文理という“爆発の種”が眠っていた。
やがてその種は、2009年夏に一気に芽吹くことになる。
だがその奇跡の裏には、この時代の涙と汗が確かにあった。
雪を踏みしめ、春を待ち続けた球児たち。
彼らの足跡こそが、文理の奇跡の土台だったのだ。

第3章:2009年――奇跡の夏、日本文理、そして越後が泣いた日
2009年8月24日。
甲子園の空に、まるで映画のような光景が広がっていた。
最終回、9回裏ツーアウト。
スコアは中京大中京10−4。
誰もが試合の行方を悟っていた――ただ一人を除いて。
その一人が、日本文理高校・大井道夫監督だった。
▶「宇都宮工のエース」から「雪国の指揮官」へ
大井道夫は、若き日の夏を甲子園のマウンドで過ごした。
1959年(昭和34年)、宇都宮工業高校のエースとして全国準優勝。
敗れはしたが、彼の直球と気迫は大会を彩った。
あの時の砂の感触、球場の歓声――それが、半世紀後の“奇跡の夏”の原点となる。
教員となった大井は、縁もゆかりもない新潟へ赴任。
1980年代、まだグラウンドも整備されていない新設校、日本文理高校に就任する。
当時、部員は十数名。バットも古く、練習場には雪が積もっていた。
それでも大井は笑っていた。
「環境がないなら、心を鍛えればいい」。
まるで、昭和の宇都宮工を再びゼロから作るように。
その日から、越後の冬に白いボールが舞った。
雪を掻き分けながらのキャッチボール。
吹雪の夜に、体育館の片隅で響く打球音。
「雪を理由にしない」という新潟野球の哲学は、この男によって完成した。
▶1997年――初出場、そして越後の新しい旗
1997年夏、日本文理は創部わずか10年足らずで初の甲子園出場を果たす。
それは新潟野球が長年追い求めてきた夢の“新しい形”だった。
県民は、アルプス席に翻る青と白の旗を見て泣いた。
「雪国から全国へ」。その言葉が現実になった瞬間だった。
だが、文理の物語はここで終わらなかった。
大井は「全国で勝つための野球」を作り上げるため、
試合後もひとりスコアブックを見つめ続けた。
「負けても、ここからが始まりだ」。
それは彼自身が1959年の夏に胸に刻んだ言葉でもあった。
▶2009年――“奇跡”と呼ばれた9回表
そして2009年。
春の選抜では中京大中京が強さを誇り、夏も全国の優勝候補筆頭。
誰もが、雪国の高校が勝ち上がるなど想像していなかった。
だが、日本文理は勝ち進んだ。
打って、守って、笑って――まるで“奇跡のように自然”に。
決勝戦。中京大中京戦。
9回表、6点差。
敗色濃厚のなか、文理ナインは立ち上がった。
打球が風を切り、歓声が重なり、
一打ごとにスタンドの祈りが形になっていった。
あの回――甲子園史上に残る“9回表の奇跡”。
あと一本で同点というところまで、彼らは追い詰めた。
大井監督は、ベンチで静かに空を見上げていた。
「ああ、またあの夏に戻れた」――。
50年前、宇都宮工のマウンドで聞いた歓声と、
今、自分の教え子たちが起こしている歓声が、重なって聞こえた。
結果は準優勝。だが、新潟の野球はその瞬間、全国の心を掴んだ。
▶越後の夢、ついに空へ
その夏、新潟日報の一面にはこう踊った。
「雪国が、夏を制した」。
敗れても、誰も泣かなかった。
選手たちは笑っていた。
「もう、“勝てない県”なんて言わせない」。
それが彼らの誇りだった。
大井監督は、試合後のインタビューでこう語った。
「奇跡なんかじゃない。冬の数だけ、夏があるんです」。
越後の夏は、こうして半世紀を越えて繋がった。
1959年のマウンドと、2009年のベンチ。
その間に積もった雪と涙の重さこそ、新潟野球の誇りである。
白い雪の下で根を張った球児たちが、ついに咲かせた花。
その名は――日本文理。
越後の夢は、いまもあの青空の下で輝いている。

最終章:雪の国、ふたたび春を待つ――帝京長岡と文理の現在地
2025年秋、北信越の風が静かに変わった。
甲子園常連県・石川、福井を押しのけ、
帝京長岡高校が堂々の優勝。
準優勝には日本文理高校――
新潟の二校が決勝を戦うなど、かつて誰が想像しただろうか。
試合後、スタンドの父母たちは抱き合い、涙を流した。
「ついに、新潟が春を支配した」――その言葉が自然とこぼれた。
この瞬間、新潟県勢が2026年選抜で一般枠2校出場の可能性を
現実のものとして手にした。
▶帝京長岡――新しい風を運ぶ、走る野球
帝京長岡は、もともとサッカーで全国を制したスポーツ校として知られてきた。
だが、野球でもそのスピードと戦術を取り入れ、
「走る雪国野球」という新たなスタイルを打ち立てつつある。
内野を駆け抜ける選手たちの足音が、
まるで“雪を踏む音”のようにリズムを刻む。
グラウンドに積もる雪を掻き分けて走る冬練。
かつて中越が苦しみながら続けた雪上ランが、
いまは帝京長岡の「強さの象徴」になっている。
雪国の子たちは、もう雪を怖れない。
それどころか、雪を「勝つための環境」として受け入れている。
▶文理の灯、いまも消えず
準優勝の日本文理は、大井監督の後を継ぐ世代が指導に立ち、
「文理魂」を新しい時代に繋いでいる。
グラウンドに響く「一本行こうぜ!」の声には、
2009年の夏の記憶がまだ息づいている。
あの9回裏で見せた粘りは、いまもチームのDNAとして残っている。
そして文理のベンチの上には、
いまも大井道夫監督が使っていたスコアブックが保管されているという。
書き込まれた細かな数字と赤い丸。
その一つひとつが、「冬の数だけ夏がある」という信念の証だ。

エピローグ:越後、白き夢の果てに
冬、白く閉ざされたグラウンドに、誰かのスパイク跡が残っている。
それは、敗北を恐れずに挑んだ者たちの足跡だ。
彼らは雪に負けなかった。
むしろ、雪を友とした。
長岡中が夢を見て、
新発田農が道を開き、
中越が汗を積み重ね、
明訓が希望を灯し、
文理が奇跡を描き、
そして帝京長岡が、いま春を運んでくる。
越後の野球は、まるで一本の太い幹のように、
幾世代もの情熱を枝葉にして伸びていった。
白球を追う音が、雪原に響く。
その音は、かつての少年たちの心にもまだ残っている。
“勝てない県”と呼ばれた時代を越えて、
彼らはようやく言える。
「雪の下に、未来がある」と。
あの夏の白球は、今も心を走り続けている。
――文・村瀬剛志(高校野球クロニクルライター)



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